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依存できなかったことから生まれる依存

依存先を分散させることや、相手に期待しすぎないことは、大人として生きていくのにとても大切なことだと思う。相手によって適度な距離感を調節して付き合えたら、双方とても心地いい。

でも、わたしは適度な距離感というものがずっとわからない。今もわからない。「この人はきっと自分を受け入れてくれる」と思ってしまうとずっしり重みをかけてしまうし「この人はわたしを好きじゃないんだ」と思うと関係を切ってしまわないと耐えられない。

それでもなんとかやっているのは「大人として自分をパッケージして見せている」からだ。

コンビニ人間」でも似たような描写がされていて驚いた。大人なら、30代の女性なら、という視点で周囲の人を観察し、トレースして自分をつくっていく。その形なら世間にうまく適応できる。「パッケージ」。

それはきっと、コンビニ人間の主人公もわたしも、小さなときに思うがままに振る舞うと「変わった子」と言われて生きづらかったからだ。特に子供にとって絶対的な存在の保護者を悩ませる。家族や周囲も同じだ。だから「いい子」に見えるパッケージをつくって過ごしていた。

「いい子パッケージ」でわたしは思う存分に誰かに甘えることはできなかった。母に迷惑をかけてはいけないと思っていたから、依存できなかった。

「依存をすることを知らない人」が「依存をやめる」なんて無理な話だ。

わたしはここ2年くらい心理療法(カウンセリング)を受けているので、カウンセラーさんは自分に寄りかかってみることをしてもいいんですよ、ということを話す。信頼できる専門家、安心できる空間。それでもわたしは「どうしたらいいかわからないんです」と繰り返す。

こんな風に、小さな頃に思う存分保護者に甘えて、依存して、今は依存を手放すというチャレンジができる人たちと、違った前提のわたしのような人もいる。

「今からでもお母さんに甘えればいいじゃない」と友人たちに言われたけれど、やったことがないのでわからない。そのくせ「甘えてもいいのかもしれない」と思える人には甘えすぎて負担をかける。調節ができないのだ。

依存してしまうことに対して、違ったアプローチが必要な人たちもいるんだろうなと思う。わたしみたいな人たちへも、何か響く言葉が見つけられたら。

心理療法を受けながら少し考えがまとまってきたので書いてみました〜!

母との関係に気づいたときのnoteはこちらです〜
👉 「愛して欲しかった」って言ってもいいんだよ

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