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実は愛されていたんだ

生まれた時は祝福されて生まれてきたのだと思う。

物心ついた時の一番最初の記憶は4歳の時に髄膜炎になったことだろうか。
父も母も血相を変えて病院に連れて行ってくれた。
1週間の入院では、毎晩消灯まで残ってくれて、泣いている僕を残して帰るのがつらくて泣きそうになりながら帰る母の顔が今でも思い浮かぶ。

実は愛されていたのだと今になって思う。

打って変わって小中高から社会人までの思い出は辛いものが多い。

とにかく教育ママだった母には何度ゲームを壊され、隠されたかわからない。
父は忙しくてほとんどおらず、たまにいる休日には地域のボランティア活動に共に参加させられては必要以上に怒られていた。

期待値が高かったというのもあるかもしれない。
あまり家に自分の居場所があると思えたことはなかった。
何かもっと素晴らしい僕のことを見ていて、そこに沿わないのであれば否定される。
そんな日常だったように感じる。

高校、大学と母に決められたところに必死で行き、言われるがまま都内の一部上場企業に入った。

もちろん最後は自分で決めたのだけれど、心から志望していた会社は中小企業だった。
大手と中小。二つの内定が出て、中小に行きたいと母に伝えた時には激昂された。

「そんなところにハンコは絶対に持って行かせない。何を考えているの。そんなところに行ったって苦労しかしない。絶対にダメ。」

自分の中で何かが壊れた気がした。
人生はこの人のためにあるのか。
何か大きなものを諦めて、灰色の人生が始まった感覚が腹の底に生まれた瞬間だった。

そして入社後4年でメンタルを崩して会社を休んだ。

全てを親のせいにした。
なんでこんなところに入れたんだ。あなた達が望んでいた息子の人生はこういうことだったのか。お金だけ安定していれば、死にたいと思いながら働くべきなのか。そんな姿をみてあなた達は幸せなのか。

子供の時から溜まっていた呪いのようなものを全てぶつけた。

「どうしてこんなことになっちゃったんだろうね」

全ての感情を無くしたような顔をして母がポツリと言った。
父は静かに泣いていた。

僕は両親に自分の人生の責任を全て背負わせていたのだと思った。

幸せになってほしいという願いを、幸せにしてもらう責任のように感じていたのだと思う。

でも本当は違っていて、自分も幸せになりたいし、2人にも幸せになってほしかった。

ただ抱きしめて欲しかったし、休日にキャッチボールやゲームセンターで遊んで欲しかった。
それだけだった。

そしてそれをそのまま伝えて、みんなで抱き合いながら泣いた。

幸せの青い鳥は結局身近にいると言うけれど、僕たちは目に見えない幸せというものを追いすぎて、本当に大切なものを見失うことがある。

実は愛されていたし、愛していた。そして今でも二人の幸せや自分の幸せを望んでいる。

ふと立ち止まって目の前の大切な人に向き合う時間を取ることを忘れたくないと思う。


まさよ


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