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己中に活あり

小学校まで、私は何の問題もなく過ごしてきた。

友達にも比較的恵まれていたし、スポーツが苦手な100kg近くある相撲取りデブだったけど、毎日が平和そのものだった。

ありがちな派閥の中でも、私はとりわけ「真面目軍団」の方で、学校が終わった後は主にゲームで遊んだ。スポーツが大の苦手で、ガタイがでかいだけの、いわゆる「ウドの大木」ってやつ。

私の地元は本当に田舎だったし、「特攻の拓」が流行っていた時代でもあったので、それに影響されたアホヤンキーが多かった。

そして、そのヤンキーと一緒になって調子に乗っていたのがホッケー部の奴らだ。

釧路市のホッケー連中は本当にタチが悪い。私は奴らの性質を知っているので、地元民でありながら、日本製紙クレインズなども決して応援しない。

彼らが働く日本製紙工場。ここも不景気のあおりとコロナの影響を受け、釧路市から撤退を余儀なくされている。

何か知らんが、そろそろ無くなるらしい。ここが無くなると、いよいよもって釧路もヤバい。失業者がガッツリ出る筈だからね。

大勢のホッケー選手達が家族と共に露頭に迷うだろう。お疲れ様です。観念して大型トラックの運転手にでもなりましょう。

実際、私はヤンキー&ホッケー部員どもから、小学校時代にいじめを食らった。でもまぁ私自体、親(特に母親)の育て方の問題で変わった人間に育っていたし、今こそ客観的に見れば仕方ないだろうな、といった感じ。ただ、そこまで執拗ないじめには遭っていなかった。

...しかし、中学校になって私の人生は一変した。

中学校になると、他の学校からもどんどん人が入ってくる。元々いじめられがちだった私は、それが不安で不安で仕方なかった。

親は朝も昼も、まともにご飯を作らなかった。私にスーパーの菓子パンばかりを食わせる。

その影響で体力も無く、不健康でブクブク太る一方だった。そんな私は、ヤンキーどもからすれば、さぞかし「歩くサンドバッグ」として優秀だったに違いない。

親に「僕、いじめられるかもしれない」と不安を打ち明けたが、「考えすぎだよ、大丈夫だ」と言われ、取り合ってくれなかった。

...入学式の日から、私への「洗礼」は始まった。

みんなで列になり体育館に向かう。その際に足を引っ掛けられた。転びそうになった私に対して、周りからの嘲笑が飛ぶ。そこまでやられてやり返さなかった私に、恐らく他校から来た奴らは「ザコ」のレッテルを貼ったに違いない。

中学校時代を一言で表現するなら、もう次の一言しか無い。

「地獄」

朝、下駄箱に到着する。靴の中に画鋲が入っていないかどうか確認をしなくてはいけない。

下駄箱から教室までの距離は約2、30メートルといったところか。その間に、ホッケー部とヤンキーに会ったら終わり。奴らの鉄拳が100%、「顔面に」飛んでくる。最悪の一日の始まりだ。場合によってはトイレに連れて行かれる。

運良く奴らに出会わずに教室に辿り着いても油断できない。高確率で机とイスが教室の後ろの方に下げられており、私の為の特設リングが設けられていたりする。

いわゆる「まさやんイジメごっこ」。

私は確か4組だったが、となりの3組のホッケー部連中がそこに混ざり、順番になって私を殴る。最終的にズボンを脱がされ、パンツ一丁になる。

しばらくして朝礼の為、担任がやってくるが、「おい!はやく机とイスを戻せ!はい、出欠を取りまーす」...てな感じで、私のイジメに全く目を向けない。いいねぇ、学校の教師ってのは楽な仕事でさ。

ズボンを上げる私を見て、小学校時代から仲の良かった女子も、蔑む目で私を見た。

時間さえあれば、私は殴られていた。朝、昼休み、音楽や家庭科の授業の自由時間...その全てが私にとって恐怖の時間だった。

そこで私は一つ、策を練った。朝、早く来る事にしたのだ。

親に「体育館で運動する」とか何とかウソを言って、6時くらいに送ってもらう。もちろん、まだ誰も来ていない。

用務員さんに「体育館で運動します」と言い、特別に門を開けてもらっていた。これで、無事に荷物を教室まで運ぶ事が出来る。その後、朝礼が始まるまで約二時間半。その時間を、私はずっと他の階の階段の踊り場で過ごした。

冬は寒かったっけなぁ。

私が「歩くサンドバッグ」である噂は1組、2組の方にも広がり、さらに私へのイジメがヒートアップする。殴られない日なんて、無かった。とにかく、廊下が怖い。トイレに行くのもひと苦労なのだ。

顔面を思いっきり殴られるのが、こんなにも痛いとは。そりゃ面白いわなぁ。だって殴られてもやり返して来ないんだもの。ヤンキーのパンチはそこまで痛く無いんだが、やっぱホッケー部の奴らは体を鍛えているからね...なかなかに痛かった。

...そしてある月曜日の朝。月曜日は必ず体育館で朝礼があった。

みんなで列になり、体育館に向かう。そして並ぼうとする最中、体育館のど真ん中で私は思い切り、クラスのホッケー部の「ノムラ」と言う奴に、顔面をぶん殴られた。

私は耐えきれずに床に倒れた。列は私に構わず、どんどん前に向かう。うつ伏せになってうずくまる中、クスクスと嘲笑が聞こえた。

「うわー...」

「はは!うける!」

「まさやん...ww」

当然、朝礼が始まるのだから、全ての教師が体育館の壁に立って始まりを待っている。倒れた私が見えない筈がない。しかし、私を助ける教師は一人もいなかった。

そんな私が通った学校は、北海道釧路市立大楽毛(おたのしけ)中学校というところ。

とても素敵なところでしょう?最高の教師ばかり。みんな、覚えてあげてね!拡散希望!!

かなりキツかったが、自分の中で「三年間だ、たった三年間、我慢すれば良いだけだ...」と言い聞かせた。

そして、地元で最も偏差値の高い高校に入学する為、必死に勉強した。釧路湖陵(こりょう)高等学校。

「おりこうな大人」になりたいからじゃない。もうこれ以上、いじめられたくないからだ。ただただ、普通に毎日を過ごしたかった。そこなら流石に、いじめられる事はあるまい。

成績も良くなかった私だが、内申ランクが「M」だったのを「C」まで上げ、何とかその高校に入学する事が出来た。

私の読み通り、そこでは全くいじめられなかった。むしろ、180cmのガタイの良い私を見て、周りの人は私を避ける様に歩いた。

廊下を普通に歩ける...むしろ、周りが私を恐れて謙遜している...。まるで別世界に入った様に居心地が良かった。

ちなみに私は、中学時代の後半からバスケに目覚めていた。湖陵高校でも、バスケ部に入部した。一旦諦めつつも、また再入部して、何とか最後までやり通した。

ポジションはベンチウォーマー(笑)。まぁ、普段の食べ物がクソだったので、今思えば当然なんだけど。ホント、子をしっかり育てられないなら産んじゃダメだって心から思うわ。

ただ、バスケのおかげでデブだった体型はそれなりにスリムに、そして筋肉質になっていった。

学校の帰り道で、中学校時代に先陣を切って私をいじめていた奴にも会った。先ほど名前を出した、ホッケー部の「ノムラ」という男。地元のCDショップでばったりと鉢合わせた。

「おぉ!まさやん...元気か?」

そいつはにっこりと、私に微笑んで挨拶をした。

私は大きい声で、以下の様に返した。

「あ?」

そして、軽く構えた。

奴はビビって少し半笑いしながら、「何よ、それぇ〜」と誤魔化した。

...何だこいつ。殴る価値もない。噂には聞いていたが、高校に入ってからさらに調子に乗ってしまい、逆にいじめられる立場になったらしい。ご愁傷さま。...そのまま無視して帰宅した。

その後、他のクラスから私をいじめに来てた奴とも、会った事がある。バス停で二人で立っていた。「タカハシ」という男と「H」君。そいつらも、ホッケー部だった。私に気付いたタカハシが、話し掛けて来る。

「おう、お前、まさやんじゃん。」

「......」

「相変わらず、いじめられてんの?w」

「............」

目を合わせる。私は一歩も引かなかった。

奴は明らかに震えた声で、アニメばりの歪んだダサい笑みを浮かべ、こう言った。

「何だお前...」

私に「スイッチ」が入った。

...ぶっ殺してやる。目に指、入れてやる。つま先を踏んだまま、後ろに押し倒してやる。首、折ってやる。睾丸を潰してやる。やるからには殺して、牢屋に入ってやる...。

次第に奴の目から力が無くなる。誤魔化す様に私を笑い飛ばし、逃げる様にバスに乗った。

ちなみに奴の隣にいたH君は、中学校時代、一番喧嘩が強かったと言う事で、有名な奴だった。恐らく、彼だけは頭が良かった。私が変わった事を理解したのか、無言のまま、明らかに雰囲気を変えた。彼の事だけは、密かに尊敬していた。人をいじめる様な事もしない男だった。

あの時改めて思ったけど、本当に釧路市のホッケーやってる奴はクソだわ。

通学中のバスの中でも、後ろに乗った他校の生徒たちを、集団で「おい、そこ俺の席だわ」と言って頭を引っぱたき、どかしていた。せめて一人でやれ、一人で。弱そうな奴にやらんで、今の私みたいな人間にやりゃいい。

そんな奴らが集う、釧路のホッケーチーム「日本製紙クレインズ」。素晴らしいチームでしょう?皆さん、是非とも応援してあげて下さいね!拡散希望!!

いやぁ、日本製紙も潰れないと良いですねぇ。まぁ、人生は自己責任ですから。何があっても、自分で処理しましょうよ。ホッケーで鍛えた持ち前の根性で、乗り越えられる!コロナなんか、得意のラフプレーで吹っ飛ばせ!(笑)

——大人になってから初めて親に、学生時代のいじめられた経験を語った。母は「あんたが?まさかw」と言って、笑い飛ばした。はぁ......あんたに子供を産む資格があったのかねぇ...。ま、いっか。

中学時代、仲が良かった数少ない友達も、私がそこまで酷くいじめられていた事を知らなかったらしい。誰にも言わなかったからね。そりゃそうだ。

まったく...私という人間は。どこまで、自分に厳しいのか。

しかし今思えば、その経験は間違いなく私を成長させる為のきっかけであり、現在の自我を形成する為の礎となった。

社会に出てからも、私をいじめた奴に会って来た。しかし、私を私だと認識出来た奴は一人もいなかった。つまり、それだけ私の見た目は変わったと言うこと。面白い事に、だーーーーーれも気付かない。

髪の毛は基本、茶色か銀、アッシュグレー。顔はさらに痩せて整形手術後ばりに変わった。身長180cm、体重85kg。親のヘンテコな食事から離れ、自分で勉強して食生活を徹底した。心肺機能だけなら、冗談抜きで現役の格闘家や他アスリートばりの自信がある。それだけの事をやってきた。Big3のPRはそれぞれ、ベンチプレス120kg、スクワット160kg、デッドリフト200kg。格闘技を少々。タイでムエタイも少しかじった。

...まぁ、気付かないのも無理は無い。私は控え目に言っても、明らかに別人になった。

正直、私の中学時代の過去を記事にすべきかどうか迷った。私は「不幸自慢」をする奴が大っ嫌いだし、それと同じに見られてしまうのが嫌だったからだ。

もちろん、私はそんな「かまってちゃん」では無いんだけど。むしろ、自分でも時折ビックリするくらいに、今の私は強い。

私の周りには、信頼できる人間が幼少期から一人もいなかった。

親兄弟、友達、教師...その他様々な人たちの中で、私のことを理解している人間など、存在しなかったと言えるだろう。

しかし、だからこそ、私は他の人以上に、自らと対峙する時間があった。

盲目のローランド・カークの様に...

ろう者であった佐々木小次郎の様に。

何十時間、何百時間、何千時間という時を、他の誰でも無い、「自分」と過ごして来た。

社会に出て詐欺に遭い、その時間はさらに伸びたと言えるだろう。

恐らく、その経験そのものが、私を強くした。

全ての人に言いたい。どう思ってもらっても構わないが、「愛情を与えてくれる人」とか、「いざと言う時に頼りになる友達」とか...そんなものは存在しない。例え友人だろうが、パートナーだろうが、親兄弟だろうが、そんなもんは実質、無い。

それでも「ある」と主張する人は、私の言いたい事が何も分かっていないし、それ以上理解してもらおうとも思わないので、好きに生きるのがよろしい。

いざという時。

いざという時。

...何度でも言おう。

「い・ざ」と言う時。

その時、真の意味で自分を理解し、自分を赦し、自分を助けてくれるのは、他の誰でも無い自分だけだ。親も結局は他人。友人に泣きつくなんざ、もってのほか。終わってるよ。

頼れるパートナーを「心の支え」と表現する時もある。気持ちは分かる。大切な人を思う気持ちは美しいし、その関係自体は素晴らしい。

だが、私の言う「いざ」という時はもっともっと、ヤバい時の事さ。パートナーはパートナーであって、あなたでは無いでしょう?

何百回でも言う。賭けてもいい。自分を真の意味で理解出来るのは、マジで、冗談抜きで、本当に、本当に、本っっっっっっっっっっっっっっ当に自分だけだ。

そして、それが出来る人間だけが...中庸たり得るのだ。

音楽や映画、アニメやゲーム、一般常識や学校教育などなど...それらが生み出し、押し付けてくる「情」や「愛」という妄想。それによって、ほとんどの人は「自分との対話」よりも「他人との対話」...とりわけ「愛」なんかを重要視する。故に、いざという時に自らの本質が見えない。

今もし、あなたが追い詰められて苦しんでいるのなら...それは、己と対話をする大きなチャンスと言えるだろう。

ここに来てようやく、自分を理解できる日が来たのだ。

諦めるな。己を信じろ。

それが出来るのは、あなたしかいないのだから。

死中に活。いや......

己中に活あり。


もし私の研究に興味を持って頂けたなら、是非ともサポートをして頂けると嬉しいです。サポート分は当然、全て研究費用に回させて頂きます。必ず真理へと辿り着いて見せますので、どうか何卒、宜しくお願い致します。