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文字言語の存在意義
この世の言葉や文字は、なぜ存在するのだろうか。
あって当たり前。そこに疑問を持つ人は、ほぼいない。だが、あえて今回の記事でその理由を掘り下げ、私なりに定義してみようと思う。
私たちは日本語を駆使する。そして、海外の人はその国の言葉を喋る。いずれも、自分の意思を他人に伝える為だ。そして、言語を理解する事によって、相手の意図を理解する。
対象がヒト以外...例えば学校の筆記テストだろうが何だろうが、その用途、基礎概念は変わらない。
言ってしまえば、「関係」を成立させる為...自分以外の存在と意思疎通したり、接点を持つ為に言語や文字は存在している。
...と言う事は、だ。
言い換えると、自分自身を理解するだけなら、言語や文字は本来必要無いとも言える。
実際、大人になるまで文字を覚えなかった人も、ろう者として生まれて聴覚障害と言語障害を患っている人も...だからと言って、自分自身の気持ちを理解する上で困る事は無いはずだ。
文字言語の主な存在意義は、人類同士のコミュニケーション。伝達すべき相手・対象がいるからこそ、それは成り立つ。
「日記」ってあるでしょう。あれも結局のところ、この世に自分の存在を知ってもらいたいという気持ちがあってこそ、書くものなんじゃないかな?
もちろん、後で自分で振り返り、過去を懐かしんだりする為に書いている人もいるかもしれない。でも本質的には、そこに羅列した文字によって、この世における自分自身の存在意義を確立させたいと思っている。その気持ちは、ある種の承認欲求が無ければ成立しない。
あわよくば、自分が死んだ後にその日記が発見され、「こんな事、考えてたんだな」と知ってもらいたい...と思っていたりする。
今のSNSあたりは、それが極端に表面化したコンテンツと言えるかもしれない。「歴史に名を残すぜ」的な。
愚かしいほどに、意味の無い行為なんだけどね。
私はTwitterをアウトプットをする為のツールとして役立て、noteでは綺麗事抜きに収入の為に活用している。だが、自撮りをアップする様な人たちは、先述した感覚で投稿してる様な気がするんだよ。
そんなわけで...ともかく、「この世におけるヒト」にとっての文字言語とは、簡単に言うと他と繋がりを持つ為のツールだ。
そう考えた場合...
これらがなぜ、この世にあるのかが分からなくなる。
宗教的な観点から見て、自分に戒める為に書いた可能性もある。あとはメモなんかの可能性もあるだろうし、学校の様に壁を黒板として使っていたのかもしれない。
だが、エジプトの壁画などを見る限り、そんな程度の規模では無い。
膨大な数の文字があるし、あれらを描くにはそれ相応の時間と労力が必要だったはずだ。
「文字言語は、自分以外の外的要因とコミュニケートする為のもの」。
そう定義した場合、これら遺物の主な役割は「(情報の)伝達」と言う事になる。
でも...誰が?
...誰に?
以前も他の記事で書いたが、これだけの膨大な文字言語をわざわざ石に掘り込み、自分たちの文化を未来の我々に遺そうとするかね?そこに、どんな意味があると言うのだ。今の我々はそんな事しないでしょう。
例えばこれから1000年後に、今の時代の生活の一部が発掘されるかもしれない。
そこで「あぁ、1000年前の人はこんな形の携帯電話を使っていたんだな」とか言われるかもしれんよ。でもそれ、結局は「たまたま」発掘されたものであり、未来の人に知ってもらいたくて意図的に遺したものでは無いでしょう?
「伝統をずっと残していこう」という動きも、色々な分野で見られる。それは認めるよ。
宗教だったり、会社だったり、武道だったり。確かに、ある。
だが...それにしても、これら遺物の存在は不可解だ。この世における「文字言語」の存在意義を自分の中で定義して、改めてそう思った。
知識として遺すなら、本や巻物にすれば良い。紙が無くても皮はあったんだから。パピルスも羊皮紙も、ね。
特に古代エジプトでは、植物の皮から作られるパピルスが、普通に使われていたはずでしょう。そこに描かれているちょっとしたモノたちですら、こんなんばっかなんだよ。
...それらを総合して考えると、壁に残る手彫りの文字言語たち。これの伝達対象は...それでもやはり、現代の我々だ。それ以外の誰に遺したって言うんだ。身内同士でこんな事する意味が無い。
文字言語だけじゃない。壁画なんかもそうだ。それを見る側がいないと成り立たない。
何よりも、それらが実際に今の時代にまで、ある程度の損傷具合に留まり、残っているのだから。これを「たまたま」で片付けるのはナンセンスだろう。ピラミッドの壁画にしろ、アボリジニーのWandjinaにしろ...どう考えても、単なる落書きには見えない。
古代人は我々現代人に、これらを遺した。
その理由とは、一体何なのか。
...ここを真剣に考えた事はあるだろうか?
日記やインスタじゃあるまいし、承認欲求ではあるまい。そんなレベルで遺して無いはず。それに、死んだらもうこの世と関係無いんだよ。なのに、「未来の人に知ってもらいたい!」なーんて理由で、あんな大掛かりな壁画やら文字やらを命懸けで遺すワケが無い。
...そう考えながら突き詰めて行った場合...
結局、それらの存在は「最初からこの世にあった、真理到達の為のヒント」って事になってしまうのさ。
存在する以上、役割を持つはず。
その役割は性質上、「伝達」以外にはほぼ考えられない。
だが、「古代人」てのが居たとしても、多分わざわざそんな事しない。
...ここの矛盾を解決するには、もうこの理論しか思い浮かばない。
何より...いつもあーだこーだと方向を変えて考察しているにも関わらず、同じところに着陸してしまう私の記事が、それを物語っているじゃないか。
——我々は、これらの「ヒント」を頼りに、辿り着かなくてはいけない。
カネは究極的に言えば抽象的な存在であり、宗教と同義だ。カネの価値=妄想、かつ次のステップには持って行けないもの。
なら、死ぬ前にやるべき事は...見えてくるんじゃないかな。
私はもう、40にして老後の様な感覚だよ。
65までカネの為に働くなんて、まっぴらごめんだ。恐らくそれじゃあ、間に合わない。
私は私なりの理屈とやり方で...すべき事を為す。
私にとって文字を駆使した「文章」は、一つの芸術だ。
この才能は決して、無駄にしない。
もし私の研究に興味を持って頂けたなら、是非ともサポートをして頂けると嬉しいです。サポート分は当然、全て研究費用に回させて頂きます。必ず真理へと辿り着いて見せますので、どうか何卒、宜しくお願い致します。