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中枢に在るもの
漠然と「意味を持たない概念」を想像した場合...
中心部以外にそこまでの意味があるだろうか?
「中心・中枢」は、他の場所に比べても強烈な印象を持つ。人によるのかもしれないが、基本的に我々の脳はその様に出来ていると思う。
もちろん、他の場所もあるんだよ。「右らへん」とか「左端」とか色々言い方があるだろう。
でも「中心」と言えば何と言うか...その存在感は圧倒的だ。重要な事柄を「中心的存在」と言ったりする。
ま、それを利用したミスリードもこの世には沢山あるんだけどさ。
ところで、あなたは相手に自己紹介をする際、何と言うだろう。
名前、年齢、趣味や特技、仕事の経歴など...色々と言える事があると思う。
でもそれ...本当に「あなた」なんだろうか?
以前も述べたが、ヒトは外的要因の集合体である。つまり、「影響」で出来ている。
育った家庭、親、出会った友人たち。小説や漫画、音楽、ゲームにスポーツなどなど...それらのパズルを組み合わせて出来た「自我」と言うやつを、我々は「自分」と錯覚している。
なら...それら全てを捨てたとしたら?
そこに残るものは...本当に「あなた」なのだろうか。
私の今までの考察結果を参考にするなら、この世はヒトである。広義で、全てはヒトから出来ている。
よく観察すれば、それは明らかだ。
自然だけでは無い。「循環」と言う側面から観察をするなら、今あなたが手にしているPCやスマートフォンも、あなただ。
未来と過去の自分が、周りに「環境」として存在する。
いや...それを「環境」と呼ぶに相応しいのかどうかすら、定かでは無い。だって、それも「あなた」なのだから。そう突き詰めて考えていくと、この世の全てが「あなた」だ。
なら...原初は何も無かったのか?
仏教では「無我」と言う概念がある。無我の境地...よく聞く話だ。
それが本当なら、やはり「真のあなた」は存在せず、外的要因の集合体を「自我」と呼ぶほか無さそうに思える。
でもね...私の考えは違う。
少なくとも、私の中には恐らく「真の私」がいると考える。
この天獄の世に毒され、すっかりコネクト出来なくなってしまったが...確かに存在しているはずだ。
...なぜ、そう言えるのか。
それは、我々の脳で「無」を創造する事自体が不可能だからだ。
試しに目を閉じてみる。
真っ暗闇が広がるだろう。だが、それすら「無」では無い。「黒」、「闇」、「無限」、「ゼロ」など...あらゆる「概念」が残ってしまう。その時点で、それは「無」では無い。
すなわち、私の考えでは「無我」など存在しない。あり得ない。
真の私も、そして真のあなたも、確かに存在する。
それこそが...「神」だ。
あなたの中枢に眠る、真のあなた=神。それを「信じる」までは、誰もが出来る事。分かりやすく言うなら、それが「宗教」だ。恐らく、そこで終わる事を真理探究とは言わない。
知恵を駆使し、辿り着く事。具体的に「それ」を見つける事が出来るかどうか。
人生とは結局、そこに辿り着く為の旅なのだ。それ以上でも、それ以下でも無い。
なぜなら...この世の全てはヒトであり、かつヒトこそが神なのだから。
中枢に在るピュアな「あなた」の存在を信じ、そしてその存在を見つけ出したいなら、中庸を理解する必要があるのは言うまでも無い。
ヒトよ、中庸であれ。
そこにこそ、求めるべき物があるだろう。
もし私の研究に興味を持って頂けたなら、是非ともサポートをして頂けると嬉しいです。サポート分は当然、全て研究費用に回させて頂きます。必ず真理へと辿り着いて見せますので、どうか何卒、宜しくお願い致します。