社会構造から降りてみることの大切さ、緩さと笑いのラップに潜む革新性 ニコ・B『dog eat dog food world』


ニコ・B『dog eat dog food world』のジャケット

 ニコ・Bことトム・ジョージ・オースティンは、2000年にイギリスのバッキンガムシャーで生まれた。両親の仕事はお父さんが建設業、お母さんが教師だそうだ。ラッパーとして活動する一方で、衣装品レーベルCROWDを運営するなど、音楽以外の表現も目立つ。

 そんなニコ・BがUKラップ界で注目を集めたきっかけは、2020年5月にリリースされたシングル“Who's That What's That”だ。この曲はイギリスに住む若者の日常を描いている。意中の女性にテキストメッセージを送る、ビッグマックからきゅうりを抜く、ウォッカを買ってハウス・パーティーに行くなどなど。正直、派手な風景は出てこない。
 それでも、“Who's That What's That”は全英シングルチャート26位を記録し、TikTokでバズった。無名のラッパーによる曲がここまでのヒットを飛ばしたのは、秀逸な言葉選びが主因だろう。多くの人があたりまえのようにおこなっているが、よくよく考えたら可笑しい行動を切りとったリズミカルな言葉にはシュールなコメディー性がある。

 こうした魅力を詰めこんだのがデビュー・アルバム『dog eat dog food world』だ。出来事を綴った短いフレーズを矢継ぎ早に積みかさね、ひとつの物語や世界観を描く手法は、ザ・ストリーツを想起させる。題材は刺激や暴力性が薄い風景ばかりで、内観が淡々と綴られる言葉は非常にパーソナル。昨今のUKチャートにおいて主流となったUKラップの典型にハマらない歌詞が印象的だ。
 本作の言葉を聴いて特に耳を引いたのは、不真面目でだらしない姿を隠さないところだ。見栄を張らず、完璧ではない自分を晒した言葉に、ハッタリやそれに伴いがちなマッチョイズムは見られない。そういう意味でも今らしいというか、有害な男性性から自然と距離を置ける軽やかさが光っている。

 その軽やかさはサウンドでも顕著だ。ジャージー・クラブ、UKガラージ、ジャズといった要素を手際よく消化したトラック群は悪くない。先進的プロダクションや飛びぬけたアレンジがあるわけではないが、現在の流れを押さえたサウンドは手堅い。色眼鏡で音楽をとらえず、ピンときた音なら何でもやってみる素直さが光る。
 ニコ・Bの声を強調したミックスも、彼のストーリーテリングを際立たせるという意味で正解だ。ラップのフロウが持つメロディアスな側面がより引きだされている。

 本作はニコ・Bという個人の視点が濃い。だが、その視点にダイブしてみると、現代社会に対するオルタナティヴな姿勢が見えてくる。他者と比べず、自分の世界を楽しむことが幸せだと示すニコ・Bの歌詞は、さまざまなところで弱肉強食の世界が広がる現在に生きる人たちの癒し、あるいは人生を良い方向に変えるための発見になり得る。人々が争ったり奪いあいしたりする様を横目に、ニコ・Bは自分の価値観を信じて前に進む。
 この姿は、現代社会が求める規範や常識から逸脱したものと言える。社会構造という名の土俵に乗らないのだから。『dog eat dog food world』は、コメディー・ラップとして楽しめる笑いの要素が特徴のひとつだ。しかし、その笑いは、聴き手にシリアスな天啓をあたえるかもしれない。わかりやすいプロテスト作品ではないが、こういう表現も社会を変える一助になるのだ。


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