労働者階級の家庭で育ったパンセクシュアルの女性は、グライムに救われた〜Debris Stevenson ft. Jammz『Poet In Da Corner』


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 2018年、とある劇がイギリスのロイヤル・コート・シアターで上演された。劇のタイトルは、『Poet In Da Corner』。ディジー・ラスカルによるグライム・クラシック『Boy In Da Corner』(2003)がモチーフの作品で、劇作家やダンサーなど多くの表情を持つデブリス・スティーヴンソンという女性が作りあげた。
 強いて形容するなら、『Poet In Da Corner』はグライム・ミュージカルだ。劇中では重低音が効いたグライム・ビートが流れたりと、音楽を積極的に活用している。イギリスのポップ・カルチャーにとって、グライムがどれほど重要な文化であるかを知るには、絶好の作品だと思う。

 それを音楽作品として再構築したのが本作『Poet In Da Corner』だ。ミュージカル版にも出演したラッパーのジャムズを協力者に迎え、デブリスが言葉を紡いでいる。
 ゆえに本作もミュージカル版のあらすじをなぞる。『Boy In Da Corner』をきっかけに、労働者階級の家庭で育った白人女性が人生を切りひらいていくという物語だ。

 物語にはデブリスの人生が反映されている。デブリスも労働者階級を出自とする白人女性であり、失読症や性的指向(デブリスはパンセクシュアルであると公言している)に対する抑圧で悩んだ過去を持つ。また、両親がモルモン教徒の家庭環境は窮屈なもので、母親はホモフォビア(同性愛嫌悪)だったそうだ。これらの背景が本作を形成している。

 その一端を示すのがオープニングの“Sitting Here - Blud Line”だ。冒頭でデブリスは、大学でジョージ・ゴードン・バイロンやシェイクスピアを研究していたが、グライムが私の人生を変えたとラップする。その後グライムへの愛情と、『Boy In Da Corner』に捧げる敬愛を紡ぐ。これは文字通りデブリスの人生を語ったものだ。
 “Sitting Here - Blud Line”は言葉遊びもおもしろい。なかでも、〈Don't cry, dry your eye just like Mike Skinner(泣かないで マイク・スキナーのように涙を拭って)〉という一節はお気に入りだ。マイク・スキナーといえば、ザ・ストリーツ名義で名曲“Dry Your Eyes”を残している。それを引用した言葉に、イギリスのポップ・カルチャーが大好きな筆者は笑みを隠せなかった。

 サウンドは、オールドスクールなグライム・ビートがほとんどを占めている。ヘヴィーなベースが際立つシンプルなビートに、デブリスの巧みな歌詞が乗る。言ってしまえばそれだけだ。
 これはもしかすると、心の狭いサウンド主義者からすれば批判の対象になるかもしれない。初期のワイリーやカノを想起させる音が鳴っているだけで、なにひとつ新しいところがないじゃないかと。
 しかし、筆者は正解だと感じる。『Boy In Da Corner』を含む、2000年代前半のグライム・カルチャーに対する感謝という本作の側面を、より強固にしているからだ。物語のコンセプトにふさわしい音選びと考えれば、難なく楽しめる。

 本作は、イギリスのポップ・カルチャーが背景にある作品だ。とはいえ、描かれる物語は背景を知らなくても感情移入できる。自分と似た状況を描いた音楽と出逢い、拠り所となる信念を見つけた。過酷な社会構造に苦しむ者への優しい眼差しで溢れる映画を観て、少しだけ生きづらさがほぐれる。普段さまざまなポップ・カルチャーに触れている者なら、こうした感動を味わったことがあるだろう。その感動を本作は描いている。

 『Poet In Da Corner』は、音楽を含めた多くの表現が命綱となり、なんとか生きている者たちを繋ぐ。


※ 本稿の執筆時点ではMVがないので、Spotifyのリンクを貼っておきます。


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