言葉を紡ぐことの責任と嬉しさ


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 音楽、映画、ドラマ、文学。さまざまな表現に触れたおかげで、ほんの少し救われたことがある。そんな経験を持つ人は少なくないと思う。

“自分と近い境遇の登場人物が物語の中心にいる”
“いま置かれている状況を上手く描いてくれた”

 こういった理由で目の前の表現に感動するのは、筆者にとって珍しい出来事じゃない。

 嬉しいことに、この想いを共有できる人が周りに多くいる。たとえば、映画関係の仕事で出逢った女性は、バリー・ジェンキンス監督の映画『ビール・ストリートの恋人たち』(2018)が大好きだと語ってくれたことがある。理由を訊いてみると、同じ女性でもそれぞれ背景が違い、そのことによって生じる理解のなさを示しているからだそうだ。

 確かに、この映画にはそう感じられるシーンがある。ティッシュ(キキ・レイン)の婚約者ファニー(ステファン・ジェームズ)の冤罪を晴らすため、ティッシュの母・シャロン(レジーナ・キング)がヴィクトリア(エミリー・リオス)に会うのがそれだ。
 ヴィクトリアは顔を見ていないにもかかわらず、ファニーにレイプされたと証言した。これが一因となりファニーは冤罪で留置所に入れられ、ティッシュと離ればなれになってしまった。こうした状況を変えようと、シャロンはヴィクトリアがいるプエルトリコに飛び、証言の訂正をお願いする。

 しかし、この選択は失敗に終わる。レイプの話になるとヴィクトリアは取り乱し、まともに話せなくなってしまったからだ。
 このシーンは、性暴力を受けた女性と、そうでない者の断絶という厳しい現実を突きつける。同じ属性であっても、境遇が違えば、たとえ意図的でなくても無神経に他者を踏みにじる可能性があるのだと。



 「理解のなさを示してるのって、シャロンとヴィクトリアのシーンですか?」。そう筆者が問いかけると、彼女は少し口元が緩んだ笑顔を浮かべながら、パーソナルな出来事を教えてくれた。かつて自分も性暴力を受けたことがあり、そのせいで生活ががらりと変わってしまったと。家から遠くなっても、帰り道はできるだけ明るいところを歩く。クラブで踊るのが好きだったのに、暗いフロアで何をされるかわからない恐怖心のせいで、クラブにも行けなくなった。
 このような経験を誰かに話しても、男性だけでなく女性にもなかなか理解してもらえないそうだ。“注意不足” “相手を勘違いさせることしたんじゃない?”といった言葉をさんざん浴びせられたという。そんな徒労感を味わってきた自分にとって、『ビール・ストリートの恋人たち』は誰よりも理解者だったと、彼女は話してくれた。

 そういう徒労感を味わってきたのに、話してくれたのはどうしてか。気になったので訊くと、筆者が書いた『ビール・ストリートの恋人たち』評を読み、この人なら理解してくれると確信したそうだ。
 その期待に応えられているかは、わからない。だが、試写会など仕事の場ではつい長話をし、プライベートでもたびたび一緒に遊んでいる。最近観た映画についても連絡をくれるし、少なくとも近くにいてもいい人とは思っているようだ。その気持ちだけでも、筆者は喜びを噛みしめられる。

 彼女の話を聞いてから、書くことの意味について考える時間が増えた。正直に言えば、筆者は自分の人生や知見に根ざした言葉を記しているだけだ。文章で世界を変えたい、誰かを救いたいといった厳かな想いがあるわけじゃない。
 実を言うと、すべての文章はとある幼なじみを意識しながら書いているが、そのことについては詳細を避ける。幼なじみとの想い出は尊いものであると同時に、いまも完全には消化しきれていない生々しい傷でもあるからだ。もっと言えば、この傷と向きあうために、文章を書きはじめた。

 そんな筆者の文章は、他のライターよりも主観的で、万人受けするものではないと思う。
 だからこそ、筆者の文章を読んで嬉しくなった、救われた、涙したと直接言われると、戸惑いを感じなくもない。このあいだも、行きつけの呑み屋に行ったら、ノンバイナリーとクエスチョニングの2人組に『ハーフ・オブ・イット』評を褒められ、照れくさかった。性に関する揺らぎの視点が書かれていて感動したのだそうだ。性的指向や性自認が揺らぐことに理解がない者からすれば、批判したくなる内容だと承知のうえで寄稿しただけに、とても嬉しい声だった。



 あなたが読んでいるこの文章がアップされているであろう2020年7月27日、筆者は32歳を迎える。22歳でライター活動を始めてから、10年目に入るという意味でも、ひとつの区切りと言える年齢だ。率直に言えば、ここまで書きつづけているとは想像もしなかった。お金を出してまで筆者に書かせる者がいて、そのおかげで生活もなんとかできている。

 10代から20代前半のころ、自分と似た境遇や背景を持つ人が描かれた多くの表現に出逢えたおかげで、筆者は生きることを諦めずに済んだ。
 しかしいまは、筆者の文章を読み、前向きな気持ちになってくれる人たちがいる。表現に自分の影を見いだしていたはずが、いつの間にか見いだされる立場になっていた。
 この立場でいることには、大きな責任が伴う。多くの人に自分の視点を読んでもらえる場で書けるのは特権であり、その特権的立場から書かれた文章に読者は影響を受けるからだ。まだ自分なりの答えを出せていない読者にとって、言葉は決定打になり得る。AかBか迷っていたとしても、どちらかを選ばせる後押しになるのだ。良くも悪くも、言葉は無力ではない。

 大きな責任を背負ってまで、ライターをやる価値はあるのか?そう悩んだことがないと言えば嘘になる。批判とは言えない誹謗中傷を浴びれば傷つき、どんなに丁寧な言葉を考えても「バカはお引きとりください」としか言いようがない案件に巡りあうことだってある。もっと言えば、儲けることだけを目的にするなら割に合わない仕事だ。
 それでも重い腰を上げ、暇があればMacBook Proと向きあい、言葉を打ちこんでしまう。ライター活動の辛さを思いかえすと、これまで得た嬉しい反響が頭の中を駆けめぐり、筆者を突き動かすからだ。

 筆者の文章との間に、誰も立ちいることができない聖域的関係を築き、その関係を大事にしてくれる人がいる。そうした読者の想いに文章を書かせてもらっていると気づいたのは、つい最近のことだ。

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