映画『#生きている』


生きている


 『#生きている』は、今年6月24日に韓国で公開されたゾンビスリラー映画。公開初日に20万人以上を動員したヒット作だ。
 今年9月8日には、ネットフリックスを介して全世界配信もスタートした。世界35ヶ国のムーヴィー・チャートで1位を獲得するなど、ワールドワイドな注目を集めている。

 ジュヌ(ユ・アイン)とユビン(パク・シネ)が中心の物語は、ある日突然ゾンビが出現し、人々を襲いだすところからはじまる。街は大混乱に陥り、都市機能も次々と麻痺していく。そうした事態にもかかわらず、ジュヌは異変に気づくのが遅れたため、団地の一室に閉じこめられてしまう。
 逃げたくても外はゾンビだらけだ。インターネットや電話といった連絡手段は切断され、食料は残り少ない。そんな状況が続くことに絶望したジュヌは、自ら命を絶とうとする。
 だがその時、向かいの団地の一室にユビンが現れる。ジュネは自死行為をやめ、ユビンとコミュニケーションをとる。その後2人は食料を分けあうなど、徐々に交流を深めていく。
 生存者が自分だけじゃないとわかったジュヌは希望を取りもどし、ユビンと共に窮地を脱しようと決意する。

 ほとんどの出来事が団地で起こる本作は、スリラー系のワンシチュエーション映画と言える。そういう作風は特に目新しいものではない。『パニック・ルーム』(2002)や『フォーン・ブース』(2002)など、これまで多くのワンシチュエーション映画が作られてきたからだ。身動きできないキャラクターが窮地から逃れる物語も、ダニー・ボイル監督の『127時間』(2010)あたりを連想できる。これらを勘案すれば、欧米の映画を引用しただけの作品とも評せるだろう。

 そのうえで言わせてもらえれば、とても良く出来た映画だ。緊急事態下に置かれたジュヌとユビンのドラマというコンセプトを上手く強調している。
 コンセプトを研ぎすませるため、本作は余計な説明を省く。ゾンビが現れた理由は最後まで明かされず、ジュヌとユビンの背景も詳しく描かれない。
 これらが不備になっていないのは、伝えたいことを明確に定め、それ以外の装飾を脇に置く引き算の美学が貫かれているからだ。カメラはジュヌとユビンの言動を追いつづけ、ゾンビをとらえる時間は驚くほど短い。あくまでも、2人の人間を描いたドラマとして最後まで進んでいく。

 このような作りのおかげで、ユ・アインとパク・シネの高い演技力が目立つ。顔の筋肉や目の動きはもちろんのこと、視線や呼気も駆使してジュヌとユビンの心情を表現する。特にユ・アインは、あらゆる通信網がなくなっても、役に立たないハイテク機器にすがってしまうジュヌの切なさを演じきっている。自らを危険に晒してまで、ベランダから身を乗りだしスマホの電波を拾おうするジュヌの姿は、高度なテクノロジーが行きわたった世界に生きる私たちへの皮肉にも見えるほどだ。

 皮肉に見えてしまうのは、ジュヌと対比させるようにユビンが描かれているからだろう。ユビンはジュヌほどハイテク機器を使用しない。苦境で使うのはロープや斧といったアナログな道具が多い。行動を起こすのに迷いがちなジュヌと違い、一度こうだと決めたら実行に移すのも早い。打ちあわせをろくにせず、ユビンが団地から飛びおりて《もう下に?》とジュヌが驚くシーンなどは、2人の性格の違いを顕著に表している。
 感性を異にするジュヌとユビンだが、2人は一緒に苦境から脱しようと抗う。それは筆者からすると、互いに足りないところを補いあいながら生きていこうというメッセージに感じられた。梨花女子大学による調査で、脱北者の女性は職場で差別を受けやすいことが明らかになるなど、韓国ではさまざまな差別が問題になっている。こうした世情の影響も本作からは読みとれる。

 ジュヌとユビンの関係性にも触れたい。2人を見ていて興味深かったのは、ロマンスが芽生えないことだ。韓国ドラマを見ていると、男女が揃えばあたりまえのように恋模様が繰りひろげられる。恋自体は悪くないと思う一方で、男女=恋愛という図式は少々ありきたりかつ窮屈とも感じる。
 そんな筆者にとって、ジュヌとユビンの関係性は好感を持てる。ゾンビが徘徊する世界を生きぬくための同志として、2人は繋がりを深めていくのだから。キスシーンどころか、恋心を抱く描写すらない。男と女ではなく、人と人という関係をジュヌとユビンは築いている。

 緊急事態下の人間を描いたゾンビ映画だからだと言われれば、そうかもしれない。それでも、ジュヌとユビンの姿に、ステレオタイプな男らしさや女らしさ、いわゆる社会的性別(ジェンダー)に対するオルタナティヴを見てしまう。
 男は女に恋をし、女は男に恋をする。そのような前提が匂わない本作に、ほんの少しだけ心が救われたのだった。




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