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POT(現村田商會)のマスターに叱られた西荻窪の悪ガキ

小学生の頃POTのマスターが怖かった。

が、それは子供の頃の自分自身に負い目があったからなのです。
桃井第三小一年生の時、中国人転校生S君がやって来ました。彼は私の隣の席になり、先生は私に彼の面倒を見るように言いました。私は4月6日生まれなので入学式が誕生日だからいち早く年齢が上がり、その分背が高い方だし何をするのも早かったということから白羽の矢が立ったのだろうと思います。

私は全力で彼の面倒を見ました。が、彼はかなりのわがままでした。と、いっても今思えば無理はありません。全く日本語も分からないのですから。
何かを伝えようとしてもうまく話せずに叩いたり、給食の時に嫌いなネギを捨てて床にネギだまりを作っていたり、それで徐々に日本語が判るようになってくると、鬼ごっこでタッチされたら「ナーンデボクバーカリタチスルヨ!」と怒ったりする。彼は身体が見上げるほど大きく、皆は怖がって逃げる。すると中国拳法のように「ハー!」と叫び攻撃するから誰にも手に負えません。まさに桃三のアンドレ・ザ・ジャイアント。私は世話人として、また皆よりは身体が大きい責任から彼の前に出て止めなければならない役割を担うべく、世話人どころか彼と毎日のように抗争を繰り広げることになりました。さながらアンドレに立ち向かう前田日明のように。

話を戻しますと、つまり帰り道でも私が彼に対して攻撃を加えたり、あるいは加勢する子供がいれば複数でからかうなどということもありました。ちょうど帰り道で戦う辺りが、喫茶店「POT」今は「村田商會」の前ということになります。どうやらPOTにはS君一家はよく行かれたようで、私にS君がいじめられているという風に伝わっていたようです。いつからか私の下校時にPOTのマスターは腕組みをして眉間に皺を寄せて見張るようになりました。

ただしS君の名誉にかけて言えば、あれは私と彼の一対一の戦いであり、しばしば二人で遊んだりもしていたのです。S君にしてみれば大人達が自分の味方をしてくれるのはありがたかったのでしょう。分が悪ければ大人の力を借りたりもするわけです。事実よりかなり盛られた話が独り歩きして、街の大人たちからいじめっ子呼ばわりされて、身に覚えのないお叱りを受けることもしばしばでした。ただし私も私で少なからず仲間の加勢を得たりしていたのでお互い様です。実際にはS君が日本語で一生懸命に対抗してくることには、敵ながらあっぱれという気持ちもありました。

その後私たちは離れたクラスに分けられ疎遠になり、関わることもなくなった頃、ある事件が起きました。Sがいじめられて窓ガラスに跨り「死んでやる!」と叫んだのです。私は見ていました。ある子供が廊下で消しゴムを落としたのを見たSがそれを拾うと、別の子供がそれを奪って渡した。Sが抗議すると落とした本人は奪った子供に拾ってもらったと言うのです。いじめです。陰湿な。このような事が、私の知らない所でも頻繁にあったようでした。

私には無関係の出来事でしたが何故かその事件の後、校長室に呼ばれて事情聴取を受けました。私は落ち着いてことの経緯を話して、自分のは喧嘩で、他の子供達のしたことはいじめだから許せないと怒りました。校長先生は「分かりました」と微笑みました。その後すぐに、Sは四年生になると同時に転校してしまいました。私は寂しくなり一度遊びに行くと、S君は不在でしたが彼のお母さんが嬉しそうに中国のお菓子を下さいました。

それから30年も経った頃、西荻窪の街でSに再開することがあろうとは話がうまく行き過ぎですが、本当です。私は身長が177センチですが、「三丁目カフェ」の辺りを歩いていると見上げるような大男がいます。「S!」と呼びかけました。190センチはありそうです。Sは日本人女性と結婚し、帰化して日本人になっていました。西荻窪を故郷として住んでいました。故郷ではあるけれど転校したからなかなか知り合いがいない、どこかに知り合いがいないかとふらふら歩いていたとのことでした。以来私たちはたまに西荻窪で飲むことになりました。すぐに意気投合して、いじめと喧嘩の違いのわだかまりも解けて、少年期の話に花を咲かせました。

はじめは「酒房高井」で飲みました。彼はなかなかの酒豪です。繰り返しになりますが日本人に帰化したものの日本で故郷といえる地縁があるのは小さい頃過ごした西荻窪くらいで、ご両親は離れて暮らしているが健在とのことです。お父さまは建築家で、ある時お昼に彼の家に遊びに行ったときにSのために作り置かれていた父親特製牛丼が忘れられません。どんぶりは肉で埋め尽くされ、真ん中に目玉焼きが乗せてある。
お母様は日本の某大学教授。さらには祖父だったか、中国で有名な画家が親戚におられるそうで、彼が日本に来て1か月足らずで私たちと口喧嘩出来たことの凄さにも合点がいきました。かなりの多彩な一族のようです。

彼が語るには、やはり私と一緒にいた小学1年まではまだよくて、クラスが離れた2年生からは本当の差別的いじめが始まったとのことでした。

以下は転校し私と離れてからの彼のその後。

なんと、アメリカ留学中に友人と三人で日本の掲示板の走りと言えるあの巨大掲示板群○ちゃんねるを、今はYouTubeで有名なH氏と一緒に立ち上げた一人だとのことでした。そうして大企業から大企業へ引き抜かれ、これまた今や世界のスマホIの研究者でもあるといいます。何と優秀な男だったのでしょうか!

S君は今は西荻窪には住んでいませんが、2020年の年末に私たちが好きな萬福飯店に行きフルコースを堪能しました。S君が少年時代住んでいたのは萬福飯店の隣のビルだったこともあり、彼も私と同じように古い常連でした。萬福の親父さんが中華街に買い出しに行く時にS君が一人で通りかかり、「一緒に行くか?」とご両親に黙って連れて行ってしまい、大騒ぎになったという親父さんらしい話もありました。小学生の頃S君は萬福飯店の炸醤麺(ジャージャーメン・肉味噌冷やし麺)、木耳肉(ムースーロウ・卵と肉の炒め)が好きだと言っていました。私は彼に聞いて木耳肉を食べたら、この世にここまで美味いものがあるか!と感動しました。昭和当時には珍しいものを、私たちは萬福飯店を通してよく知っていたのです。S君は仕事で中国の有名中華料理を散々食べ歩いたそうですが、日本の中華は世界一だと言います。特に萬福飯店は別格に美味いと。少年期からの萬福飯店について語れる唯一の友人と言えます。もし私が、190センチもあろうかという福耳で貫禄ある大男と西荻窪の街を歩いているのを見かけたら、それは多分S君です。先日萬福飯店の親父さんが亡くなり、メッセージでその話をした時にはまた近々行こうという話になりました。

POTのマスターの話のはずが、思い出話になってしまいました。彼もまた健在のようです。いつまでもお元気で。

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