2歳9ヶ月の娘と、ライプニッツと、スピノザ。「必然の相」で子育てする。
2歳9ヶ月の娘がいる。
日々、笑ったり、歌ったり、踊ったり、怒ったり、泣いたり…いろんな出来事が、めまぐるしく起こる。
そんな彼女を見ながら、つくつぐ思うことがある。
それは、【起こることが起こる】ということである。
どんな出来事も、それが起こりうる条件が十分に揃わない限り、起こらない。
例えば、今朝も、「おしっこした」と言って起き、大量のおしっこがオムツを超え出て、パジャマを濡らし、シーツを濡らした。
そうだ、昨日の夜、いつも以上に牛乳を飲んだからだ。あるいは、オムツの位置が、寝相によって、少しズレたのかもしれない。
でも、水が浸透しないシーツを敷いていたおかげで、敷布団までは浸透しなかったのは幸い。
そして、今朝は、いつも8時30分頃に、保育園に行くのだが、その「おしっこ」で、普段より早く目覚めたこともあり、朝の支度がいつもより早く進む。
気づくと、彼女は、もう保育園に行く気満々で、玄関のドアで待っている。「あ、ちょっと待ってね」と、妻も準備を急ぐ。
そうして、いつもより早く登園することになる。
これも、考えてみれば、流れの中で【起こることが起こる】であり、それは別の言い方をすれば、【必然】ということだ。
ここで、突如、小難しい話をしてみるが…
かつて、ライプニッツという哲学者は、このことを【充足理由の原理】と呼んだ。
何事もそれが起きるのを充足する理由なくして起こらない、とのこと。
つまり、ある出来事が起きるなら、その出来事が起きるために必要な条件(理由、原因、環境、前提など…)が必ず存在する。
起きる出来事には、そのどれにも、それが起こるにふさわしい、必要な一連の条件があり、それらの条件がひとまとまりになって、出来事を発生させるわけだ。
言われてみれば、そりゃ、そうだよな、と思う。
はたまた、スピノザという哲学者が書いた『エチカ』を読んでいると、そこでもやはり、あらゆる出来事は【必然】として生じているんだな、ということが、びしびし伝わってくる。
例えば、ある物体がある方向に動いていて、それがどこかで止まるならば、それは止まる「力」(例えば、落下しているものが地面に到着する、走っている人が壁にぶつかる…など)が生じていたのだし、止まる【必然】があったということだ。
そして、スピノザは言う。多くの人間は、そうした出来事の発生の背後にある【必然】に気づいていない、と。
だから、起こった出来事に対して、誰かのせいにして腹を立てたり、一つの原因を見つけては責任を押し付けたりする。
しかし、多くの出来事は、一つの理由ではなく、複数のあらゆる【それが起こりうる理由】が束になった時にこそ、生じている。
だからこそ、スピノザは、その【必然】を認識せよ、と言う。
そうすれば、あなたに訪れている【必然】を引き受けることができるようになり、その【必然】をより豊かに生きていけるようになる、と。その先に、人間的な「自由」の感覚や至福がやってくる。
だからこそ、われわれは、認識の仕方を更新しなければならない、と。
そうして、スピノザは、はじめの浅く、よく間違う認識のことを「第一種認識」と呼び、背後の【必然】を捉えていくような十全な認識を段階に分けて、「第二種認識」「第三種認識」と呼ぶことになる。
しかし、これ以上、踏み込むのは、僕の力能をはるかに超えているので、ここまでにする。もちろん、ここまでも、かなり私なりの意訳・解釈があるので、気になった方は、自分で調べたり、読んだりしてみてほしい。
さて、話を戻そう。娘の話だった。
ライプニッツとスピノザを登場させてまで、僕が言いたかったのは、変わらず、結局は、【起こることが起こる】ということであり、
起こってしまった出来事の、その【必然】を受けとめ、引き受け、その上で、より良い方向に舵を切るほかないよね、ということだ。
スピノザの表現を借りるならば、もっと「必然の相」で子育てできたらいいのにな、とも思う。
そうすれば、子育ては、もっと楽になるし、もっと楽しくなるし、もっと面白くなるんじゃないか。
もちろん、僕自身、いつでもそんな風には生きられないし、ついつい不本意に怒ってしまうこともあるのだが…
自戒の念も込めて、もっと「必然の相」で子育てしていきたいな、と思ったのでした。
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