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「いのちの電話」? 神様が出てくれるのか!番号書けばあんたら(メディア)はもう関係ないのか?

本気腹が立つ。自殺報道の最後に「命の電話」と言う番号が載っている。で、お前は無罪放免なのか?メディアは免責なのか。「いのちの電話番号」が書かれていればもう対策は十分だから、死ぬのは勝手なのか?

有名人の自殺も辛いことだが、僕には無名の人々や子供が自殺の自殺が辛い。テレビでは心療内科の偉そうな「白衣の薬の売人」が自殺は病気と言う。兆候を見つけたら受診させて「薬を盛れ」という。自分の商売の宣伝ではないか。人の不幸が飯の種とは可愛そうな商売だ。

そしてそいつらを専門家と崇め奉るのはわたしたちだ。愉快ではない。

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神様にパンチ

電話相談でなんとかなると本気で考えているのか?

僕は人生で何度も生きてはいけない目にあってきた。会社の経営者は繰り返し試練に合う。田舎で独立系のソフトハウスなどしていたらそうなって当たり前だ。

自分が一生かけて作ってきた信用がクソみたいな取引先に踏みにじられる。

2000年前後グローバル化とかいうやつで地方の問屋系は軒並み潰れた、料亭も消え去った。僕の友人は首をくくった。小さな商売でも、生きていれない目に合うことはあるのだ。そんな時に電話で何を言われたら生きていけると思う。そこらの小役人がコソッと魔法の言葉でなんとかしてくれるのか?

自殺は社会の問題である。人生に追い詰められてもまだやり直せる希望の持てない社会になってしまったのだ。

それこそが格差社会なのである。格差は世襲されているのだ。そして平等な教育の機会というフェイクが自己責任と感じさせる。

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昨今のイジメやパワハラ、「うつ」に「統合失調症」、拒食に過食、依存症に自殺が当たり前の世界、僕はメディアに大きな責任があると思っている。

これだけ自殺の問題が長く論じられ、役人は対策を立てるが全く効果がない。メディアがきちんと批判するべきなのだ。しかし、大学の教授は役人の言いなりだ。というよりも、役人が喜ぶことを研究する専門家が重用される。

だから社会の問題だだと考えない。「個人の病気」だといい、よく効く薬を処方する病院という名前の「阿片窟」にイカせて治ったと胸を張る。

治ったわけではない、苦しみ生きようとする一人の人間が「従順な消費者」になっただけだ。物売る連中には理想的な世界である。

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イジメで死んでいく子供たち

僕は中学の頃学校に行けなくて死のうかと考えていた。だから、イジメに関してはいろいろな本を読んだ。わずかに、優れたものも有ったが、やはり駄目だと感じた。

どれも、ピンとこないと言うよりも、学者の先生方には土台無理だと思った。そもそもホンキで死のうと思っている人間を翻させる言葉などない。

その本にも共通する特徴がある。

「先生・親」を当事者から除外しているのだ。どう考えても、僕には納得できなかった。もう一つは、イジメを「学校」の中での特殊な出来事と捉えているのだ。

それもおかしい、ヒトの集団では似たようなことが様々な局面で起こっている。会社ではパワハラであり、家庭ではDVであり、教室ではイジメなのだ。

僕は、これらの現象には共通の背景があり、当事者たちを責めるのは間違えだと思っている。

それ以外に取り得た道がありながら、この道を選んだと言うわけではないと感じている。ここの問題は社会の問題であり、それを明確にしなければならないと思う。

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文科省(一般人の考える)イジメに関しての考え方には大きな問題がある。

イジメがイベントであるという誤解

イジメは関係性の中で生まれる。人は「コミュニティ=共通の価値を求める集団」に属してその中で楽して(自分のリソースを費やさないで)集団の中で分配される価値を求める。

しかし、それを理解していないと、「単純な暴力事件(イベント=出来事)」であるかのごとく考えてしまうのだ。だから、黙認している子供を傍観者などという言葉で呼ぶ。

イジメを知りながら傍観して何も言わないのは、自分の利益になるからである。


いじめやパワハラ・セクハラDVこれらは皆、人という群れを作る生き物の「律」であると考えている。

共通の何かが見える。自分の求める「価値=食事とセックス」そして「それを手に入れることのできる富」を得るための「他者操作=ディール」なのだ。

しかし、80年前はもっと優しかった。

年老いて何もできなくなった自分を養ってくれることを買えなかったからだ。他人を踏みにじるのもいい加減にしていたのだ。

スクルージは改心したし、神様は雷を落とし、疫病で不倫を懲らしめた。

学校の先生も医師も、地域で生きながらいい加減なことは出来なかった。引退してそこで余生を生きる時に近所付き合いが必要だからだ。

今は違う。金で老後の介護も変えるのだ(笑)。かつては「家族」というものが介護してくれて、貧乏でも守っても会えていたが、グローバリズムという「獣」はそれを見事に破壊した。

貧乏人も金持ちも、同じ様に家庭というシェルタを失ったのだ。

しかし、金持ちは介護を金で買える。どこまでも貧乏人は苦痛の中で生きることになる。

この話はまた今度。

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この話の続きです。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。