ペットシートは干してはならないという「お達し」が出た
ペットシートのオシッコを乾かしたらまた使えるかと思いベランダに干して見ることにした。
妻に怒られた。貧乏くさいというのである。こんな事している家はないという。外から見られたら恥ずかしいという。
まあ、実験として干して乾いたペットシートの上にオシッコをするかを見てみたかったのである。マユの認知能力についての貴重な実験の機会を失ったのである。
上手く行けば、オシッコをしたあとで切り取らないで、乾かしては使い回せるのではないだろうか。3−4枚のシートをずーっと使えるかもしれない。
井上ひさしさんのお母さんは、若い頃「海藻を紡ぎこんだ生理用品」を作ったという。何故か、いつもその話を思い出すのだが、出典が不明である。
今考えると、父の実家のトイレ小便池が出来ていたあたりにも敷いておけたかもしれない。
父の10歳年上のオジサンの入っている施設にお見舞いに行った時にトイレに敷いてあったことを思い出した。
最後に父とお邪魔したときは、施設の「個別の部屋」に住んでいたのだが、何度も転倒して、大部屋に入っていた。色々と話しをしても長く続かない。持っていったお菓子を食べてお暇した。
定期的に会いたいと言っていた父がその訪問以来何も言わなくなったことを思い出す。今どうしているだろうか。
父は最後の一ヶ月にはオシメになったが、親とは言っても替えるのが辛かった。僕が愚かだったせいで医者に連れて行ったのが原因である。ピンコロに逝くを見守ると約束したのにそうは行かなかった。
ペットシートを替えるたびにそんな事を思い出す。
僕のペットシートは誰が替えてくれるのだろうか。必要がないようにピンコロに人生の終りを迎えられるであろうか。
剪定したに庭木を細くして庭に敷き詰めるのだが、百日紅を切っているとマユが大騒ぎする。なかなか面白い。
百日紅に関して、気になって調べてみたら風水では「凶木」だそうである(笑)。この木があると家族に争いがてないという。
やっぱりそうか、大事にしよう。
今僕の家が建っている土地のお宅の庭木であった。奔放に大きくなり、実生を飛ばすので僕は大好きである。この2年ほど庭師さんを頼まないで僕が剪定している。結構大きくなって少しびっくりである。
池の方に実生が二本ある。あっという間に大きくなって葉が庭を覆うので陰るので今年は剪定することにした。生命は不思議である。置かれている場所で精一杯「自分として」生きようとする。見習いたいものである。
庭を見ていると庭全体で一つの生命のように見える。
その生態系というダンスホールが一つ一つの生命を育んでいる。そして、どの一つの生命も他の生命との関係性がなければ、今の形では存在しない。
ヒトというマイクロバイオームのコロニーは、その個体が埋め込まれている食物連鎖のダンスホールの外では存在し得ない。どこからどこまでを一つの生命と考えるのかわからなくなる。
ダーウインとリンネは「ヒト」を特別扱いするという意味では正当な『宗教』の申し子である。僕は嫌いだ。
暖かくなると、母はいつもこの木を眺めては、葉の付きが遅いと枯れたのではないかと心配したものである。
ホームセンターから飯豊連峰を望む。遠くの山の雪はより白くて面白い。小さい頃から同じ風景であるが、多くが変わってしまった。
桜はまだ咲いていない。
なんとか今年の国体のプログラムの方は修正の目処が立った。発注が来るかわからない。4月の半ばくらいまでには来てないと弱ったことになる。2年連続で中止だったので、もう後が無いのだ。
「漠然とした不安」というのは夏の日に布団を上げる時に「外した蚊帳」にくるまれて身動きができないようで不思議な感触である。不安でありながら、安心できる。
部屋の中に得体のしれないものがズリズリと入ってくるようである。
精神科の医者ならば、大喜びで病名をつけるであろう。よく効く薬もあるのだ。しかし、薬は何も現実を変えない。その場で自分らしく生きることこそが生命の姿である。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。