格差の方程式:工場日記 最悪の日々
その最高の日にたどり着くには最低の日々が必要だった。そして、人生は「最低の日々」のほうが圧倒的に多い。
僕は父が50年勤務した会社にコネで入社した(笑)。東京でソフトの仕事をしていたが上手く行かず新潟に帰ってきたのが34歳位で、人のつてで大阪に行き根っからのADHD体質が災いして首になり、新潟で印刷会社に入るも退社、新潟市内のソフト会社に就職する直前に、見かねた父に勧められた。
定時に出社して定時に帰る仕事で、給料は安いが安定しているし、父は総務部長だったので、「会社のキング」である。これから社内でコンピュータを充実させねばならないからと言う。きっとソフト会社に入っても長くは続かないだろうなと思った。そこで父の(努めている)会社に入った。
後悔の工員生活
父は東京の本社の社長の子飼いだった。工場長のお目付け役のような立場だった。工場長とは犬猿の仲で、初日に工場長に「お前は工場で働きなさい、特に事務所にはコンピュータの要因はいるから必要ない」と、言われた。
ナッパ服に着替えてヘルメット被って工場で朝のラジオ体操をしていた時は、少し後悔、トイレが簡易くみ取り式で便器をウジ虫が歩いていることを発見した時は驚いた。4時になって交代班のチームが来て帰る頃には相当後悔した、明日は来れないと思った。しかし、父親の顔を潰すわけには行かない。ここで頑張れなかったら後はないと毎日泣きながら仕事に行った。
何度会社に行かないでこのまま東京に行こうと思ったかわからない。東京の友人にも一切連絡を取らず完全に音信不通だった。半年前までデーアベースとか行っていたのに油まみれで鉄切っているのだからもうあの頃の友人とは合う気にならなかった。
僕が操作していた1号スリッターの前、右端が僕、真ん中が親方。
0.3mm~3mmの厚さの鉄のコイルを規定の幅に切って出荷するのが仕事だった。刃組みと行って規定の厚さに切るための厚い円盤を高速で回転する軸に取り付ける作業が出来るようになるのには時間がかかった。
現場の人は高卒が多く、僕のついた機械の親方は中卒だった。工場の親方は楽しい人だった。梱包の人は小学校卒業だと聞いたが、間違えるたびに、「学士様でも間違えるかねえ」などと嫌味を言われた。
危険な職場で、手が潰れている人や指が半分ない人もいた。僕も危うく指を切断するところだった。今でも左手の中指は寒くなるとしびれる。
昼休みはバラック建ての食堂で皆食事をする。遅く行くと注文漏れでべ弁当が足りないこともあった。バレンタインデーには事務所の女の方がかごに入ったチョコレートを前の机において帰るものだった。夏は近所でスイカを作っている社員がスイカを持ってきて切って配った。ひと玉いくらの商品サンプルだった。
大卒はここでは無能な証拠だ。
飲み秋でベロベロになって父の実家の玄関で小便をタレたりもした(笑)。相当つらい日々だった。手取り15万円でベースアップ5000円である。35歳で先持っ見えない。中々面白い現象である。
当時は笑い事ではない。これから20年働いても月給25万円である。30年続く長い階段を登っていくようなものだ。
一年後に死のうと決意した。
丁度インターネットの商業利用が始まり、メールでプログラムを送れるようになった。友人から話があって、ソフトの仕事を一本うけた。交代制の仕事だったので4時には上がって翌日の8時に会社に行けばよかった。とにかく懸命にバイトしたのだ。
40万円の仕事だったが、僕には大変な価値があった。メールでプログラムを納品できたからまだなにか出来るような気がした。
音信不通だった友人と水上のキャンプ場でキャンプすることになった。星空が綺麗で酒飲みながら、とにかく精一杯やって埒が明かなかたら死んでしまえと思った。フランスの哲学者の本で読んだことがある。本気で死ぬと決めないといけないそうだ(笑)。
不思議なもので、一年後に死ぬと決めたら会社の皆とも打ち解けはじめた。
10時と3時に休憩時間があった。冬はストーブでスルメを焼いた。社員は入ってきては、馴染めなくて辞めていった。僕もやめるとみな思っていたようだ。やがて、皆に馴染んでいった。飲み会があったり海に貝採りに行ったりした。夏冬には同じグループで集まってバーベキューなんかもした。
やがって、組合の評議員になって色々とやかましい男に成りはじめた。ADHDなのだから仕方がない(笑)。経営者や組合の幹部には嫌がられた。ここが面白いところが、組合というものが社員の側に立っていないのである。
御用組合の委員長になった
やがて、会社に馴染んでいくうちに、今の妻と知り合い結婚することになった。これも驚きである。後で聞いたら、究極の選択だったそうだ(笑)。まあ、半年くらい付き合ったくらいでは相手のことなど何も分かるわけがない。
組合の委員長に選ばれた。どの会社亜でも同じかと思うが、組合というのは経営者の広報部のようなもので、社員の意見を伝えることなどなかった。なにせ、組合の委員長を勤め上げると事務所に入って課長になるというご褒美があったのだ。どこの会社でもそうだと聞く。
僕の2人前の委員長は工場長に楯突いて最後まで平のままでいた。僕が一番尊敬している方だ。
部長連中とはケンカばかりしていた。怪我をすると、あたかも怪我をしたのが悪いような扱いを受ける(決してそんな事は言われないが暗示的にそうだった)。
毎日無事故記録は伸びていきながら、工場の片隅の救急箱のコーナーには血で汚れた脱脂綿が落ちていた。高速でカミソリが巻き取られている様な機械だから少しでも気を抜くとバッサリやられる。
やがて娘が生まれることになるのだが、トンデモナイことが起こるのである。
会社が親会社から倒産させられるのだ。
それも、一切の退職金の増額もないままである(注)。娘が生まれて半年が経つところだった。
大平洋金属というのは海外に鉱山を持ちボーキサイト(ステンレスの材料)を自社で調達できる日本で2社しか無い会社の一つだ。新日鉄などの鉄鋼会社からステンレスのインゴットを納品していた。
新潟金属はステンレスの加工会社で新日鉄の競合となるのだ。設立当時は住み分けしたたのだが、海外市場の変化などでツツすように干渉を受けたのだと聞く。おまけに単に「発注をしなくなただけ」だから勝手に潰れろという。
新潟金属でも退職金の積立はしていたが、一気に全員が解雇されるなどという事には対応できない。勝手にお前達死ねということだ。
この話に続きます。
当時、僕が作ったページである。
ここからが、大騒ぎである。
7月に倒産させられるのだが、それまでに交渉して何とか退職金の割増をもらおうと考えたのである。
結果的には1億3千万円をえることになる。
しかし、問題はそこではない。格差がいかに私たちの社会に染み込んでいるのかということが浮き彫りになるのだ。
このお話です。もう随分立って、別なものが見えてきた。
僕が最後の委員長であった。
玉掛けとフォークの運転が出来る。プログラムも書ける。
今でも一部の工場は他者のもとで稼働している。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。