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理論生命学 序-1)ウイルスは生命である

古い考え方では「ウイルス」は生命でないという。
「ウイルスだけ」では自分を増やせないから、生命ではないと言う。

では「男」は生命だろうか?
植物(花)は生命だろうか?
男は、女がいなかれば自分を増殖させられない。当たり前であるが。
植物は蝶や蜂がいなければ受粉できない。

ウイルスも同じである。つまり、ウイルスは遺伝子を運ぶ側なのである。精子と同じ側なのだ。卵子を求めて生命の間を移り歩く。

コロナ騒動の残したもの

コロナはいいこともした。一般の人達が多くの専門的な言葉に接したのである。僕は糖尿病の勉強を始めた時に「インスリン」ー「インスリン受容体」の関係を理解するまでに時間がかかった。
しかし、「スパイクタンパク」という表現は生命のあり方をミスリードする。「受容体」の概念を抜かしては細胞がいかに外部と一体であるかを理解できない。
「スパイクタンパクと受容体」の関係は「鍵と鍵穴」と言ったほうが美しい。そもそも鍵穴がない所に鍵は存在しない。鍵とは、敵を入れないためではなく入ってくるものを味方だと信じるためにある。

スパイクタンパク質は細胞表面にあるACE2(アンギオテンシン変換酵素2、angiotensin-converting enzyme 2)に結合する。ACE2は血圧の調節に関係するペプチドホルモンの一つアンギオテンシンを活性化する酵素である。ACE2は肺、心臓、腎臓、腸の細胞で見られ、これらの細胞はウイルスによる感染の対象となる。PDBエントリー6m17の構造によって、ACE2にSARS-CoV-2スパイクタンパク質の受容体結合ドメインが結合した複合体の構造が明らかになった。複合体の中で、ACE2はアミノ酸輸送体B0AT1にも結合している。

ここで言う受容体ACE2が存在する細胞が「メス」の役割をするのだ。無論細胞にRNAが入り込んだ後も、様々な問題がある。工場内の特定の場所に行かなければラインには乗れない。
細胞も変異することで環境に適応する。
「インスリン抵抗力」という言葉がある。糖尿病でインスリンの分泌量が十分なのに血糖値が下がらない人を言う。病気の扱いであるが、細胞が受容体を「変化」させたのかとは考えもしないであろう。
僕らだって、騒音がうるさい時は耳をふさぐ。「症状」は環境に対しての当たり前の現象でしか無い。細胞生命を主体に生命を考えることがいい。
部分は全体のパーツでも道具でもない。

「人獣共通感染症」と言う「人様至上主義」

ウイルスが、リンネが決めた「種」と言う概念を知っているというのが、「純血主義生命学」の言っていることだ。
『生物を目で見える形態で分類して、その地域的時代的変化を記述する』と言う「生命の見方」へと導き出した。
自然を「混沌」から「秩序」だった世界へと導いた。
ダーウインの「進化論」を生み自然をヒトが支配できると言う信念を導き出した。

彼らは、生命を目で消える形態でしか判断できない時代の「教科書」を作ったのだ。そしてそれ以降の生命学はそれを後生大事に守っている。

パスツールさんによって「細菌」が発見されて、「病の病理学から」ウイルスの存在が推定されて、ミクロの世界でも「この生命観」はドグマとして苦輪する。
ヒトと動物の両方に災厄を与えるウイルスは「極悪な存在」であり、渡り鳥や野生動物は人の世界から隔離されるべきだと言うドグマが生まれたのもこの流れなら仕方がない。

子宮頸がんのウイルスにしても人以外の動物で繁殖するのである。いくらワクチンを打っても仕方がないのである(ワクチンに効果があるとしてであるが)。

ウイルスが生命かという議論

生命の定義は「自分を増殖する力があるかどうか」と言う一点で考えられた。種の定義も「第二種雑種:子供同士で同じ子が出来るか」と拡張されて、ラバやレオポンは第二種雑種が出来ない。人の場合は色々な違いはあるように見えるが、孫やひ孫が生まれる。DNAには「人種」と言う私達の概念は書き込まれてはいない。しかし、そう思いたがるのが人であり多くの悲劇の生まれる場所である。

「アリストテレスとアメリカインディアン」と言う本では、アメリカ大陸に入り込んだヨーロッパ人が、インディアンがキリスト教上の人であるかの議論を行った。結局よく似た獣だという結論となり、神を信じていないということになり、家畜を殺すようにインディアンを殺した。まあ、今と大差はない。ヒトよりも犬やイルカのほうが大事だと言うのはマイクロバイオームの為せる技であろうか。

https://note.com/masaya59/n/n86d71a42abd9

交配による品種の変化は「植物は下等な生物だから」ヒトがその叡智でより良いものへと進化させているという傲慢は生命観を生んだ。優生学などというトンデモナイものも生まれあのである。
やがて遺伝子組換や除草剤が科学の力だと考えられるようになる。
僕には『科学とは自然の劣悪な模倣』としか見えない。

ウイルスが生命かどうかという議論は生命の誕生の研究から起こったのだ。
結局、ウイルスは生物や植物に「災厄をもたらす悪」であると考えられる。
今のワクチンというメディカルキャピタリストに富を与える「侵襲」へと続く。

スパイクタンパクとではなく、鍵タンパクなのだ

人の精子は、見事に卵子を探し出す。しかし、セックスをしていれば必ず受精するというわけではない。卵子の中に入るための鍵を持っていて、なおかつ卵子自身がその鍵であくドアを持っていなければ受精は完了しない。
だから、いくら羊(一番人によく似ているという)とセックスをしても間の子は生まれない。神話の世界では雌馬とセックスをしてケンタウロスが生まれたと言うから、大昔には実例があったのかもしれないが........…

大事なことは、ウイルスは何処でもココでも見境なしに細胞を攻撃するということではないということだ。せっかくRNAを細胞に手渡しても、そのRNAを使って増やしてくれなければどうにもならないのだ。つまり、遺伝子を受け取った「卵」側に準備がなければどうにも生命のプロセスは開始しないのである。

スパイクタンパクと言う名前だと泥棒が家のドアを破って侵入するように聞こえるが、それはミスリードを生んでいる。
「結核や梅毒」のような病の時代に育まれた私鯛の「病」に関しての概念は変わったほうがいい。
より生命のあり方を上手く説明できる「理論」が見つかる。

ウイルスの効用

ウイルス学は大きく変わった。ヒトゲノム解析を行った技術を利用して、DNA,RNAの切れ端から、そこに「生命」が存在することを見ることの出来るテクノロジーのおかげである。

それ以前は、シャーレで培養して生きている細胞生命を培養して目で確認する他なかったのである。当然「嫌気性の生命」はみな死ぬからそこには何もいないという事になる。
腸内環境が、今考えられている様にマイクロバイオームの棲家であるということが分かられたのも最近のことでしか無い。あっという間に目端の利く商売人がトクホだとか機能性食品だとかいう商品を出して大喜びである。
しかし、変わらないことは「人の体内は免疫系で守られて無菌状態が健康なのだ」と言う考え方である。それはあまり嬉しくない。

ウイルスは、聞いてくれる人を探しながら世界を歩いて宗教家のようである。
「Brother Sun Sister Moon」より

中世カソリックは宗教として肥大化して、どうにもならなくなった。
その時に「聖フランチェスコ」は清貧の教えを説いた。それはキリスト教会の巧みな懐柔策(貧者の取り込み)であったのかもしれない。格差が大きくなった社会に対しての当たり前の反応であったのかもしれない。
全体が貧しかったときには見えなかった問題が富の集中によって見えるようになってきたのだ。
日本の仏教史においても「浄土真宗」は同じ様に異なった種を生んだ。そして世界の変化に向き合っていったのである。

火の鳥 鳳凰編は素晴らしい。僕は大好き、輪廻転生を直感的に教えてくれる、

存在自身が世界を変えて、変わった世界に対して自分も変わろうとする。生命のあり方がここに見える。


帯状疱疹は何を伝えようとしているのか

少し前に、帯状疱疹で苦しんだ。「政治的に正しい医学」では、ヘルペスウイルスが神経細胞の中に潜み免疫力が落ちたら帯状疱疹が発症するという。

なんとごいう都合主義、擬人化、純血主義的であろうか?

免疫系は人の身体の内側の警察ではない。普通に人というコロニーの内側には多くのマイクロバイオームが生きている。やがて年をとってヘルペスウイルスを取り込める「受容体」を持った細胞が生まれるとも考えられる。
おそらく、その受容体を持った細胞は別な役割も担うのであろう。
ヘルペスウイルスはその細胞に「呼び寄せられる」とも見える。
帯状疱疹は外に行こうとして心身を生むと考えたほうが納得がいく。

これこそが生命のダンスである。セックスであり、死であり誕生であるのだ。まあ、僕にしてみたら痛くて痒いものではあったが。

ウイルス・細胞生命・細胞(精子と卵子に由来するDNAを持っった細胞)は人のパーツではない。
それ自身の姿を見据えなければ「生命」は見えてこない。

僕の食事メソッドは、細胞が互いに戦う生命観ではない。
マイクロばイームが生命の下請けとなって「共生・共存」するものでもない。

数限りない生命は、身体というコロニーの内側でダンスするのだ。
私達はマイクロバイオームの乗り物でしか無い。

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。