見出し画像

ザンパノ・マサヤーンは美味しく「残り物」を食べる。「もったいない」が消えた食卓。

残り物のことを「残飯」と言う。ご飯を買ってき余ると、捨てる。テイクアウトでも食べ切らなければ捨てる。「もったいない」という言葉は経済用語ではない。金額に換算できない事(家族が作ってくれた食事の価値)を表す言葉なのだ。

食事が金で買える時代となり、食べ物を「もったいない」とは誰も言わない。金額に換算して、「満腹率」と掛け算して食事を評価するのだ。だから、弁当に残ったものを捨てても平気だ。

家庭料理の値段

もっと深刻な問題は『家で料理』を作っても金額で評価されるのだ。満腹という尺度で、お店で買ったら幾らなのだろうかと換算されて、評価される。

まるで「食べる人」が審査員のようにふんぞり返り、偉そうにする。テレビのグルメ番組は、食事を勘違いさせる。

しかしね、「家庭と言うシェルター」は単に食事を提供する装置ではないのだ。家族の病歴や遺伝的形質、毎日変化する身体、向き合っている現実を共有しているのだ。そしてもっと大事なことは、ともに生きているということだ(であった)。

と同時に家庭というのはハラスメントの場でも有る。箸の持ちかた、挨拶の仕方。食べ物に関しての規制、残さずきれいに食べなさいと言う強制。

給食ハラスメントは家庭でも起こっている

「しつけ、教育、予防医学」と「ハラスメント=本人が嫌がるものを無理に教えること」は同じものを違った方向から見ている。しかし、ハラスメントは「結果的に本人のため」である場合もある。

では何処で、侵襲か救済なのかを判断するのだろうか?

この問題はなかなか厄介である。まあ、また今度書くことにしたい。

いづれも家庭以外では食べるものがない場合になりたることだ。

家族は「自分の欲望」に対しての「侵襲する」。それはハラスメントと言える。しかし、毎日カップ麺ばかり食うのを止めるのは良いことではないのか?どちらにしても、どれもうっとおしい。

学校は家庭を模したものであるから、当然ハラスメントは常態だ。子供の欲望に対して、教師がしつける。標準が「いじめあり」なのだ。

家庭と大きく違うのは、年取った時(子供に介護される時)に復讐されるというところであった。それがともに生きるということであった。天罰というのは架空の物語で宗教的な訓戒でもない。リア王の昔か、未来に老人になった私に、介護者となった子供は復習するのだ。

循環して再生する家族という枠組みは、自分の姿を子供がコピーする。年寄りに辛く当たれば、子供も自分に辛く当たる。子供を虐待すれば自分が介護される時に虐待される。それが無限の暴力の連鎖に対しての抑止力なのだ。

今の時代はそんな抑止力が亡くなったのだ。これは深刻な問題である。

しかし、今はそちらにしても子供は自分を介護しない。だから何したって怖くない。そして、子供を家庭で守るのは警察の仕事になったのだ。この話はまた今度。

「であった」と過去の話にしたのは、すでに多くの機能は行政に委託され市場化されているのだ。家庭という機能の塊も、「教育・医療・介護」と言う単位にバラされて、表面的になぞられている。行政は平等に「サービスの受け手=市民」を扱わなっければならない(表面的にでは有るが)。それはマニュアル的になり個人の違いは無視されるのだ。

画像3

「いただきます、ごちそうさま」というのは挨拶ではない。

この言葉は、家族揃って食事をするときに、家長が食事を作ってくれた『祖母ー母ー娘』に「感謝の念を」表明して、口に合わなくとも文句を言わないことを宣言しているのだ。昨今の食卓では、作った人が「言い訳」をする。本当はもっと美味しいのよとか、今日は失敗したという。そんな事言うことはない。共に生きたいと感じて食事を作っているのだから。

ザンパノというのはイタリア語で「悪」を意味する

映画「道」の中でザンパノさんが食べてる一皿。ああ、食ってみてえ!彼は刹那を生きる。欲望と心の間に苦しみながら生きる。時に思う、もし、神との邂逅で彼が変われたら、ジェルソミーナとザンパノは共に生きれただろうかと。僕はこの映画が大好きだ。

ざんぱの

画像2


厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。