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「命を守る行動」という不愉快な表現:メディア・行政は無罪放免されるのだろうか?

少し前の水害での死亡があった時、「行政からの避難指示がなかったこと」が問題だと非難され、このフレーズができたと思う。
思わず吹き出したことを覚えている。
今回も、メチャクチャ多用された。妻はいいことを言うと感心していたが本当の問題はそこにはない。


命を守る行動とは、「行政と企業、買い取られたメディア」を信じないことである。

大雨が降ったら、自分の状態を考えて、役人が何と言おうと命を守らなければならないのだ。住んでいるところにどんな危険があるのかということは、「家族というシェルター」が持っていた知恵があったのだ。
そしてコミュニティ自身が自分たちを守るために生きていたのである。
問題は、私たちのコミュニティが跡形もなく消え失せて、行政にその役割を委託したところにある。
今回の豪雨で真っ先に思い出したのが「熱海の土石流」である。パブリックとして守られていた山が企業活動で凶器に変えられたのだ。そんなことはもう起こらないと言う輩もいるであろう。
ソーラパネルの設置がどうだったろうか?一切メディアでは報道されていない。なにか起こっていないわけがない。
山を削り富を得ようとした企業と認可を与えた行政の責任は有耶無耶である。

2015年の事件です。

メディアは信用してはならない。企業の広告が彼らの富の根源である。
どんなひどい被害を出しても企業は潰れればもう責任追及は終わりである。

あれだけ怖い怖いと市民を脅迫して死んでも運が悪いねという対応である。

私達は、家族というシェルターと「ともに生きるコミュニティ」を持っていた。

50年前までのことである。大昔のおとぎ話である。
グローバルキャピタリストは富を得るために市民を殺す事を何ら悪いこととは思わなくなったのだ。そして形式が整っていれば無罪放免である。

野伏来るだぞ、女はさらわれ、みな殺されるだぞ。腹の透かした侍雇うだ。
行政などあてにしないで自分たちの命を守ったのである。小さい頃、侍を雇った村だけが焼かれなかったことを老人は覚えていた。私達はすぐに忘れる。
野武士も生きるに必死である。行政は公平中立であるという幻想を守らねばならない。そして高給を受け取る。メディアはアイツラの手先なのだ。

僕の専門は「医療と食事」である。

トクホや機能性食品、繰り返される検査と早期発見という大義名分での治療。そこにはメディカルキャピタリストの錬金術が存在する。
最近のトクホ・機能性食品の宣伝では、「✗✗に効く」とは書かない。「健康に良い効果が期待されます」と恐ろしいことをいう。

命を守る行動を取らないお前が悪いということなのだ。
自分たちも通る道だということに気が付かないのだろうか。

人を守ってこそ自分も守られる。生きるということはそういうことだ。いつもここで泣きそうになる。

「命」という言葉を役人が使うと不愉快である。

命を大切にとか言いながら、苦しんでいる個人を見捨てているのは「マニュアル的な対応と保身」である。

普段はチョロチョロの用水路となった川が満水である。
この川は土手でホタルが飛んでいたものであるが、上流の流れを変えられて水はほとんど流れなくなっていた。今回の雨がもう少し南まで来ていたら冠水であったろう。
家の排水口は排水路が満杯で流れなくなっていた。
川の水を見に行った妻、大体、大雨で年寄りが増水の様子を見に行って溺れる。無事であった。
前の道路は冠水していた。

#水害
#ソーラパネル
#命を守る行動

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。