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テレワークで働けて幸せと思っている人達には、これから一波乱ある。まもなく実質的な賃下げ、首切りが始まる。

能力のある人には多くの賃金が払われるというのは良いことに聞こえるだろうがそんなことはない。新しい技術が入ってきた時に自分がまっさきに出来る仕事がなくなる。

そして学ぶ機会も失われるのだ。効率的でない、無駄だと言われる事は重要なのだ。

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とにかく、今より給料や労働条件が良くなる選択肢が現れたら、危ないとおもうといい。世の中そんなに良いことはないのだ。厳しい競争を与えて、落とすために高給は用意される。それが分からないで応じる馬鹿は真っ先にやられる。

ウキウキしている場合ではないがどうして良いのかはわからない。労組も首来られる社員を守ることはない。経営者は賢いから、どこからも文句が出ない時に首を切る。新潟金属は恐ろしく幸運だったのだ。

残念ながら、僕にもどうして良いのか分からない。ロト買うのもいいが当たり番号を知らないからなあ。

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政府が賛美して、これからの姿だというものは全て大企業の望むものである。そしてそれはコストカットである。まず、政府が賛美するものはヤバいと思おう。

過去においても、「派遣」がいかに労働環境を破壊してきたか分かるだろう。雇用の不安定化と公的負担の軽減は経営者にとって一見良いことに見えるが、イノベーションを企業の中で生む機会を捨て去っているのだ。

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人として「共に生きる場としての企業」はもう存在しないのだ。職場が人間の出会いで、互いに尊敬し合いながら自分にないものを得ていくのだ。

僕は、工場で働いて苦しかった。そして学歴というのもがその人の価値に全く関係しないことを知った。

僕は20代の頃、東京のソフト会社でブイブイいわしていた。14人位のチームを率いてえらい勢いで、そのまま独立して、上手く行かず新潟に帰り、工場で働いた。

そして、企業というものは給料をもらうために働くだけの場ではないと知った。

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そして、このあと10年とんでもない体験をする。よくぞまあ、ネタが切れないものだ。

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写真は父の実家の店舗部分を借りて平野屋コンピューティングの事務所をはじめた頃。奥には惣菜を作るでかい厨房があった。

独立して会社を起こしてから最初の一年は1千万売り上げた。友人の営業が仕事を持ってきて売上の半分をピンはねして残りが僕のものだった。ほぼ休むまもなく家にも帰れなかった。この小さな場所でソフトを書き続けていた。

数年後に、友人から見捨てられた。やがて、関東の会社から直接仕事を受けるようになったが、そこから先がとにかくひどいものであった。

ディール時代、自営業は辛い。この会社でベーコン事業をはじめたが上手く行かなかった(笑)。

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大学時代のゼミの先生の言葉を思い出す。今でも先生のことはいつも思い出す。企業も個人も小さい規模で閉じられていた時代に紡がれた私たちの「家庭=社会」という繭はすでに打ち破られたのだろうか。

【第1号 1986年卒業記念論文集】斎藤靖夫
          「どんでん返しのない社会」より
.....ところではじめに触れたコラムの最後には、「社会党の一部にさえ自民党との連合論が出るようになったのだから、企業はどんでん返しを心配しなくても」よくなったのだと書かれている。 学生生活の「最後」のために論文集を編み「どんでん返しのない社会」へ出て行く君達に、それでも君達は君達自身と他の一人一人の価値に繰り返し思いを致してくれと願うのは、幻想なのだろうか。人の良心は内にあり、従って人の価値は内にあり、たとえどんでん返しのない社会でも、その内なるものを社会構造的なものにするのは可能なのだと伝えることは、妄言なのだろうか。

「最後の論文集」を単なる記念碑にしないために。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。