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インスリン、糖尿病、生活習慣病(8)食事調査とはなにか

「還元主義」というのは問題の原因を少ない要素と結びつける考え方である。シンプルでわかりやすく、悪玉を見つけて取り除くか、善玉を探し出してきていただくのだ。問題は善悪はどこにあるのかということだ。

医学は多くの欠乏(過剰)症や感染症に勝利を収めてきた。ビタミンや必須栄養素の発見、結核・梅毒などのように特定の代謝系を持つマイクロバイオームとの戦いを考えればわかる。特効薬が「医学」を権威として来たのである。お医者様の言うことを聞いていいれば命が救われたのだ。

ところが、1980年代から成人病と呼ばれるものが医学上の問題となってくる。「成人病」というのは従来の病気とは大きく違った。通常の病気では「原因」ー>「症状」ー>「治療=原因の除去」ー>「治療終了(元に戻る)」である。しかし「成人病」では既に手遅れなのだ。身体の基本的な部分が「治療不能」になることが症状なのだ。

治療法も多く考えられたが、いずれの治療も「破壊的治療」でしか無く、火事になった家を周りの家ごと壊してしまうようなものである。

そこで「予防」が必要になる。コレラや赤痢に対して下水の整備のように問題の発生源を「仮説」して対処する。同様に「予兆」を探す(定期検診と早期発見)ことになる。そして「生活習慣病」が生まれた。

生活習慣病というのは行政用語である。

1996年に厚生省は医療費の削減のために「検査値」を正常化することを治療として認める。当然であるが、「検査値と疾患の間」に関連性がなければならない。

ごく最近まで、この関連性は医師の信念(妄信)に守られてきた。当たり前である、広範囲な食事調査もビッグデータも分生物学的根拠も無かった時代の医学がそのまま連続しているのだ。学会での重鎮と言われる人たちが大学で栄養学を習った時代から大きく変わっているのだ。

「エビデンス ベースド メディスン」と言う言葉が聞かれるようになったのはごく最近である。しかし、それがまた問題であった。

予防策として何が善玉で何が悪玉かを探すことになった。そのためのメソッドが「食事調査」なのだ。

食事調査とはなにか

マクガバン報告の時代に、「食事」と「健康」の因果関係の研究は発達した。調査に関しての様々な条件が研究され、「二重盲検」「ランダムサンプリング」が必須の条件として考えられた。

「二重盲検」:調査されている人にもしている人にも何を調査しているのかをわからないようにすることで、調査のバイアスが無くなる。

「ランダムサンプリング」:調査を特定の条件のヒトを対象としないことで「ヒト」の一般的な特徴を見つけ出す。

つまり、「ヒト」と言う「抽象的な存在」が明確にあるという考え方に基づいているのだ。僕はこの考え方を『ヘレニズム的』と呼んでいる。細胞は受精したときから死ぬときまで同じであり、一回完成した「ヒト」にとって良いもの悪いものは同じであると言う考え方である。

考えてみらばこれほどバカバカしいものはない。20歳の若者と90歳の老人が同じ尺度で測られたらおかしなものである。しかし、栄養学はせいぜい年齢でのバイアスをスこそ考える程度で「バランス」が大事というばかりである。彼らの言うバランスとは「脂質ー糖質ータンパク質」の比率、必須栄養素の必要量の摂取、特別な場合の忌避(妊婦にビタミンA等)というような抽象的なお題目である。

それ(抽象的なお題目)を逆手にとってレストランや食品の監修をして荒稼ぎする医者や栄養学者もいる(笑)。まあ、食品は賞味期限があり、消えていくから恥をさらさないが、業界重鎮の方が「凄まじい食品」の監修者になっていたりする。タレントの顔を刷り込んだレトルト商品程度には売れ行きに差が出るのだろう。とは言っても皆短命であることを考えれば効果は期待するほどのものでもないだろう。

健康(=検査値)が悪くなれば「バランスが悪い」といい、検査値が良ければ、素晴らしいと褒めるのである。これほど患者を馬鹿にしたものはない。

検査値は明日の健康を保証しない。致命的な疾病が発見されるまで、検査値は正常なのだ。高いビルから転落しても地面に激突するまでは健康なのだ。

医学は警察とよく似ている。本質的に「予防」というものが存在しないのだ。「検査値」というものが災厄をもたらすと仮定して、検査値を下げることで予防しているという。

そんな政策が20年続いている。しかし私たちの恐怖はなくならない。

対策が間違えているから結果が出ないのだ。

しかし問題はそこではない。この状況で金儲けしている連中がいるのだ。

医者や栄養士の方々はよく考えてもらいたい。私達はあんたがた専門家を信頼する。そして言うとおりにする。しかし、望むような老後は手に入らない。あなた方(医者や栄養士の方々)も、そうなるのだ。毎日老人の辛い死に方と直面しているだろう?そしてその死に方はあなた方の末路でもあるのだ。「政治的に正しい栄養学」不幸を生んでいるのだ。

患者の問題ではなく、自分の問題だと考えてもらいたい。

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検査値の意味:食事は身体の中で姿を変える

食事は「生化学物質として」身体というコロニーに取りこまれる。その瞬間に、身体の中の様々な「細胞とマイクロバイオーム」に取り込まれる。そして細胞の中で「代謝」される。

糖尿病患者の細胞(筋肉と脂肪組織)はインスリンの「許可=取り込んでいいという」を聞けないからブドウ糖を取り込まない。その結果、血液の中のブドウ糖は下がらない。そして、高血糖を知った腎臓は尿にブドウ糖を排出する。つまり尿に糖が出るのは身体の当たり前の反応なのだ。そして、高血糖が身体にダメージを与えるという考え方は分子生物学的な機序を見つけられていない。つまり、災厄の原因とは言えないのだ。

「代謝」とは常温での化学反応であり、その細胞の中で「生化学物質」は違った形に変化する。ブドウ糖も細胞の中に取り込まれあっという間に別な形に変化する。ブドウ糖(C6-H12-O6)は「水素Hと炭素C」をミトコンドリアに安全に運ぶコンテナなのだ。

細胞の中の「コード(DNA)」に従い外部から特定の物質を取り込み、分泌する。このダイナミックな関係の中で「検査値」は変動するのだ。検査値は個々の細胞が互いに話し合っている声なのだ。苦しみや喜びを検査値は伝えている。それが検査値なのだ。代謝系はひとりひとり違う、その差異を全く見ていないのだ。単純な一つの問題に関係しているわけではないのです。

一つの数字は多くの問題と関連している。「複雑系」を単純に解き明かすことは出来ない。

食事調査=統計的なトリック

食事調査は多くの場合「一つの要素」を比較します。例えば、「塩分」の消費量に関しての調査だと、塩分の消費量の比較だけで塩味がスキかどうかの判断をします。東北地方での塩分消費が多いことと脳溢血の因果関係を結論付けている調査が多くあります。

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岩手のインターチェンジで見た看板、ご飯美味しそうである。

しかし、塩分の消費が大きいことは、単純に塩味がスキだと言えるでしょうか?僕は岩手に一週出張でいました。その時に色々と食事をしましたが、出される食事で、塩味が強いと感じたことはありませんでした。おそらく全国チェーンのお店(牛丼屋コンビニの弁当)でも同じ塩味で出しているのではないのでしょうか。特別にその地方向けに塩分を強くしているとは思えません。

塩味は、炭水化物を食べるときに最高のおかずになります。そして多くの場合、ヒトは炭水化物だけ食べて満腹となったら「肉魚野菜」が少なくとも満足するのです。そしてお米は美味しいのです。

では、塩と脳溢血の関係はあるのでしょうか?無いのでしょうか?炭水化物との関係があるのでしょうか?無いのでしょうか?「肉魚野菜」をどう食べているのでしょうか?

単純な塩の消費量と疾病の関係を消費量の調査から判断することは出来ません。ましてやどんなプロセスを経た食事食べているかなどということは見えてこないのです。これこそが「複雑系」の問題なのです。

結論としては、僕は「食事調査はエビデンス」とはなりえないと考えています。工場で作られた規格品の耐久テストのような技法は意味をなさない。一人一人は違いすぎるからなのです。

そして大事なことはそこではありません。私達が心安らかに生きるすべを失ったということです。

家族の中に年寄りがいた時代に、その具体的な「身体というコロニー」に付いての治療と回復の道のりをを知っていた。経験上『「家族」という症例』を持っていたのだのです。経験という知識を伝達するプロセスを失ってしまったのです。


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(注1)腎不全におけるタンパク質の忌避

いちばん有名なのは腎不全に対してのタンパク質の忌避だと思う。尿タンパクが増加するから血液内のタンパク質が多いと考えられて、食事から押し出そうとするが、実際には私たちの身体は筋肉と言うタンパク質のおプールから毎日遊離させて、毎日取り込まれている。身体と言うコロニーに住んでいるマイクロバイオームはいつも血液内のタンパク質を「食べている」のだ。腎臓は血液の中の様々な物資を「細胞でつくられているフィルター」を通して閾値以下になるように排出する。

問題は、血液内のタンパク質ではない。「細胞でつくられているフィルター」が適切でないことだ。脂質でつくられた「細胞膜」には無数のタンパク質が埋め込まれている。そして、タンパク質は数時間から数日で入れ替えられるのだ。このダイナミックな「メタモルフォーゼ」が毎瞬間起きているのだ。身体というコロニーは常に姿を変える。

メタモルフォーゼに関しては後日ジックリと考えましょう。エイジングとも結びついている大きな問題です。私達は環境に適応するために常に変わりながら生きているのです。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。