結局「講義」とは何ぞや?
SNSでは,時々「大学の『授業』というのは誤りで『講義』なのだ」という言説が見られます。
例えばこちら。
今はなくなってしまったのですが,「大学では、中学高校と違い、授業とは言いません。あくまで講義と言います。」とし,次のように述べている古いブログもありました。
この二人の先生方の「講義」観は,それぞれの先生方の大学観,すなわち大学というものをどうとらえているかを反映しています。この二つの「講義」観から垣間見える大学観はShizuka Uchida氏が書いている通りです。「学生一人一人が、自分で調べて、考え、教授にエビデンスを揃えて、議論して学んで行く」場,つまり学生が自ら学んでいく場が大学であるということです。この大学観に異議を述べるつもりはありません。
しかし,「大学では,『授業』と言わず『講義』という。」という,大学教員によくある言説には違和感があります。上の大学観を前提にしたとしても…です。
そもそも「講義」とは何でしょうか。
Shizuka Uchida氏は「議論を促す場なのに」と述べています。すなわち「大学の講義は,議論を促す場である」ということです。
「大学教員の日常・非日常」ブログでは,「自分の学説を論じてみたり、研究の一端を解説して、それを学生が一生懸命理解しようとするのが、講義なのです」と述べています。
果たしてこの2つの「講義」の定義は,一般的な定義でしょうか。
佐藤浩章編著『講義法(シリーズ 大学の教授法2)』(玉川大学出版部)では,以下のように書かれています。
ここでは,講義は「学習者の知識定着を目的として」「口頭で知識を伝達する教育技法」であると明記されています。「大学教員の日常・非日常」ブログが「別に知識を与えることを目的とはしていません」としているのとは真逆です。
佐藤が上に示した「講義の定義」の方が一般的だと思うのですが,いかがでしょうか。
また,「授業」という言い方をしたとしても,小学校の授業と大学の授業では,その内実が異なるのは当然のことです(もっと言うと,小学校と中学校,中学校と高校でも授業の内実は異なっているはずです)。
つまり,ここで重要なのは,大学で行われているのは「講義」か「授業」かではなく,大学の教室で行われている教育活動の内容がどうあるべきかだと思うのです。「講義」と呼ぼうが「授業」と呼ぼうが,それは本質的な議論ではないと考えます。。
もっとも法令上は,大学「授業科目」「授業」と表記され,「講義」は「授業」の中の種別にすぎません。
Shizuka Uchida氏のポストには,とある方がこの「大学設置基準」を示して,大学で行われる教育活動は講義だけではないことを暗に示したのですが,それに対して「幻滅します。」と返信しています。この返信の真意を知りたいと思っています。
(どちらかというと,大学の授業がどうあるべきという議論よりも,学生の質の低下を嘆いておられるように見受けられました。そうなると,論点は「大学の授業」ではなく,大学の在り方そのものになるのかもしれません。)
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