芦田宏直氏の『シラバス論』(晶文社)を読んでみた.
以前芦田宏直氏が,「コマ数=科目数(多科目主義)では教員が授業準備をまともにすることなどありえない。六コマ=六科目をまともに授業なんてやれないから,その内の(少なくとも)二コマくらいは、『ゼミ』とか『発表型』『調査型』授業とか『ワークショップスタイル』などの手抜き授業になってしまう…。」とSNSで述べていたことを取り上げて,「ゼミやワークショップ」が「手抜き授業」とはどういうことだろう,という記事を書いたことがありました.
この投稿の出典であるらしい『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』はまだ読めていないのですが,氏の『シラバス論』を読んでみました.
この著書で,この人が考えている「講義」とは何なのか,「手抜き授業」とは何なのかをうかがい知ることが出来ました.
この著書でまず芦田氏が述べているのは,シラバスは「時間」型シラバスでなければならないということです.芦田氏の大学のシラバスは,次の9項目で成り立っているといいます.
(1)今回の授業の主題
(2)科目の中でのこのコマの位置づけ(当該科目内部におけるこのコマの意味を記載する)
(3)コマ主題細目
(4)細目レベル(上記3で挙げた主題をどの程度深堀りして教える=学ぶかを提示する)
(5)キーワード(九〇分授業の理解のカギを握る言葉を三~五個程度で提示する
(6)コマの展開方法(パワポを使う,e-ラーニングを介在させる,アクティブ・ラーニング手法を使う,一部ゲストスピーカーを参加させるなど授業運営上のサブ情報を記載する)
(7)国家試験との関連(国家試験との関連テーマがある場合に記載.関連過去問の記載や出題傾向の提示なども有効)
(8)予習・復習課題(「この」授業九〇分一コマの予復習課題を教材テキストの該当箇所を指摘しながら具体的に記述する)
(9)使用する教材(参照文献)・教具(「この」授業九〇分一コマの理解のために必要な参照文献(いわゆる教科書も含む),参照教材などを上記3の「コマ主題細目」に関連付けて頁数を示しながら記載する)
また芦田氏は,次のように述べます.
一回の授業のコマシラバス(九〇分の授業時間一つ一つについて,上記の(1)~(9)を記載したもの:引用者注)を記載する力は,まさに授業デザイン力そのものだといえる.学生の顔を思い浮かべて,教科書(既成教材)を書き下ろしの教材(授業資料)を九〇分の授業時間の中で案配するその設計,つまり「ペースメーカー」としてのシラバスは,詳細なシラバスを形成しない限り機能しない.そしてこの<コマシラバス>をどんどん詳細化していけば,それ自体が書き下ろしの教科書に変貌する.
このように,一コマ一コマ,その教員の教育目標を明確にし,その授業時間の使い方をデザインした授業(「講義」「演習」「実習」「実技」「実験」)でなければならないはずで,その授業のためには,教科書を1冊書き上げるくらいの準備が必要なはず….これが芦田氏の前提です.ここを抜きにした「講義」は「手抜き授業」であるということです.
その前提で,「『ゼミ』とか『発表型』『調査型』授業とか『ワークショップスタイル』などの手抜き授業」であるとはどういうことなのでしょうか.芦田氏は次のように述べます.
「演習(ゼミ)」授業などもシラバスが曖昧な「わいわいガヤガヤ」型の授業にとどまり続けている場合がある.…(中略)….しかし<演習>は,すでに学習主体にそこそこの知識ストックがあると認められている場合にしか成功しない.「知識」INPUT型だと学生が寝てしまうので,「演習」で何とか盛り上げるというような演習こそシラバスが書けない(原文は傍点)演習になる.「私は演習担当なんですが,詳細シラバスをどう書けばいいですか」などというような演習授業なら,もうやめた方がいい.講義で充分な教材・資料を用意できない教員が演習でまともな教材・資料を用意などできないからだ.
芦田氏が批判していた「『ゼミ』とか『発表型』『調査型』授業とか『ワークショップスタイル』などの手抜き授業」とは,とりあえず学生に意見を発表させておけば,ディスカッションをさせておけばよしとする,教育目標も授業時間の使い方もあいまいな「ゼミ」「発表型」「調査型」「ワークショップスタイル」の授業をいうのです.
冒頭に引用し,以前の記事で論評した芦田氏のSNS投稿の真意はここなのでしょう.そういう真意であるなら,このSNS投稿で示された芦田氏の意見はまっとうなものであると私も考えます.
演習などの授業形態は,学生に本当に力をつけさせようと思えば,事前に綿密に授業計画を練り,手だてを打っておく必要があります.その意味では,芦田氏の言う「コマシラバス」がきちんとかけるような授業は,講義以外の授業形態でこそ必要になります.
芦田氏は,『シラバス論』の中で,授業準備が不足している教員を厳しく指弾します.文部科学省がことあるごとに言う「単位の実質化」などの「大学改革」に寄り添うように見せながら,返す刀でこれまでの一連の教育改革の流れを批判します.この本の帯には「教育学も文科省も踏み込めなかった大学再生の道標」と書いてあります.私を含む大学関係者は,この本の内容を一度かみしめて考えるべきではないかと思います.
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