長髭の賢者と帰らずの塔

「ようやく、辿りついたな……」
 この扉を開けば、俺の長い旅路もようやく終わる。ここが、ミナを取り戻すための終着点。かつて、世界を恐怖の底に落とした魔王の根城。今では、魔王を討った長髭の賢者が居を構える、帰らずの塔の頂上。

 長髭の賢者の命と引き換えに、どんな望みでもひとつだけ叶うという言い伝えを信じて、俺はここまできた。

 多くの仲間が失われた。塔までの長い道のり、塔を上る困難な探索の中で、数多の魔物と対峙し、凶悪な罠を越え、ひとつ階を上がるごとに現れる不可思議な空間。乗り越えるたびにひとりまたひとりと、仲間の命が消えていった。

 たったひとりの女ために、皆が己が命とすべてをかけた。ミナは、それほどの存在だった。

 万感の思いを込めて、重い石扉を押し開いてゆく。
 かつての魔王の玉座の間、今では賢者の住まう智識の間。古の威容、吟遊詩人の謡う伝承さながらの光景が広がった。その中心に、長髭の賢者はいた。

 枯れ枝のような手足を見せて、煤けて色も分からぬ長衣を纏い、奇怪な装飾が施された背高の椅子に腰かけている。痩せ枯れた顎からは、その名の通り長い長い髭が伸び生やされ、賢者の足元を越えて人の数倍もの長さを成し、床を這っていた。骨と皮だけの顔には、暗く落ちくぼんだ眼孔の底、そこだけ生気を宿したように爛々とした眼が光る。首から銀の鎖で吊り下げられた魔水晶が、妖気を放って鈍く輝いていた。

「とうとう来たか……お前の望みも、お前が成したいことも、すべて知っている」
 皴枯れているが、しかし朗々とした声で、賢者が語りかけてきた。
「さあ、俺を殺すがいい。それで、お前の望みがすべて叶う」
 そうだ、俺は俺の望みをかなえるために、すべてを捨てて、ここへ来た。

 だが――。

「イヤだね」
「イヤ、だと? なぜだ? では、お前は一体、なにを望んでここに立つのだ?」
「俺は……知ったのだ。お前が、俺だということを」

 賢者の目が、ぎらりと光った。
「お前を殺せば、確かにミナは蘇る。だがそれは、今蘇るわけではない。俺は知ったのだ。ただミナを失う前の時に、引き戻されるだけだということを」
 枯れた老人の指先が、ぴくりと動く。
「お前を殺せば、俺はお前になって、長髭となるまで次の俺を此処で待つことになる」
「そうか……お前は呪いを、知ったのか……」
「もうこの繰り返しが何千何万と繰り返されたことを、俺はあるとき気づいたのだ」
 賢者は黙って、ただ虚空を見つめて、俺の話を聞いていた。
「繰り返される時の中で、かすかな記憶の痕跡が積み重なり、この俺の時でついに、確かな形を成したのだ」

 ゆっくりと顔を下ろし、老人が重く語りかけてきた。
「では、お前はミナを、諦めるというのか?」
 毅然として、否定してやる。
「そんなわけは、ないだろう?」
 俺は、静かに、笑った。
「全てを、救うのさ」
「全てを……どうやって?」

 こんな無間地獄にいったいどんな意味があるというのだ? 失われたものは、どうやっても戻らない。全てを救い安らぎを得る道は、これしかない――。

 旅の中で手にした聖剣<時越え>を、抜き放った。
「やはり、俺を殺すのか?」
「そうさ、俺を殺すんだ!」

 言いざま俺は、振り上げた剣を逆手に構えて思い切り振り下ろし、自分の胸を刺し貫いた。刺し口からまばゆい光が溢れ出し、部屋いっぱいに広がり満たしたかと思うと、大風を巻き起こして、あらゆるものを巻き上げた。風はやがて俺と賢者を中心にして、渦を巻いて大竜巻に姿を変える。

 何を思っているのか、賢者は少しも身じろぎしなかった。

 吹き出す鮮血のしぶきが、暴風に乗って大渦を赤く染めていく――俺の体は冷え、意識は遠のき――これでいいのさ、死んだ者は帰りはしない、俺もこれで仲間のもとへ、ミナのもとへ――。

 爽快な青空が、見渡す限りどこまでも広がっていた。
 壁も天井も、大仰な椅子も、巨大な柱も、大竜巻はすべてを吹き飛ばしてしまい、ただ俺の足元に、俺だけを残して消えさった。

「あーっ、やぁーっと、終わったぜっ」
 俺は盛大に血を流して死んでいる俺を見下ろしてから、大きく伸びをした。再び見下ろすと、死んだ俺が塵となって消え去ろうとしていた。

「まったく、お前のせいで、ひどい目に遭ったぜ、ミナ」
 俺の傍らには、魔水晶の封印を解かれて蘇った、ミナが立っていた。

 深い海色の髪が陽光を弾いて艶やかに輝き、ヒスイ色の瞳は潤んで揺れていた。魔道の衣を結ぶ組みひもは、豊かな胸と尻の間に深い谷を作っている。白い肌の手先には<万象の杖>が握られていた。魔道の申し子、俺がただひとり愛した、女の姿。

 泣き出しそうな気持ちを堪え、強がり笑ってミナに目を向けた。
「あら? 途方もない時を超えて恋人に言う一言目が、それなの?」
 軽くとがめてみせるが、口の端には笑みがこぼれていた。言われた俺は、気恥ずかしくて、堪らない。

「あんな魔法、二度と使ってくれるなよ?」
「だって、仕方がなかったの。ああしなければ、貴方を死なせてしまったのだから」
 ミナはうれしそうに俺に抱き着いて、ふくよかな胸を押し当ててきた。何もかもが懐かしい……取り戻した若い肉体を、ここで試してしまおうか?

「あれからいったい、どんだけ時間が経ったんだ? 二百を越えるあたりで、さすがに面倒になって、数えるのも止めちまったぜ」
「それじゃあ、貴方も私も、おじいちゃんとおばあちゃんてことね」
「ずいぶん綺麗な、おばあちゃんだな……」
 幾千の時を超えて、俺はミナに唇を重ね、柔らな感触を楽しんだ。

「とりあえず、この煤けたローブはなんとかしたいな」
 どれだけ着ていたかわからない、カビ臭い布を摘まみ上げた。少し動いただけで、酷い悪臭をまき散らして鼻どころか目まで痛くなってくる。

「それなら、これを着たら?」
 ミナが差し出した武具を見て、俺は目を見張って驚いた。
「それって……俺たちが倒した魔王の装備じゃないか」
「いいんじゃない? もう、魔王の姿を知ってる人なんていないし」
「確かに、みんな死んじまったし、もう俺たちのことを知ってるヤツなんてこの世にいないだろうけど」
 ミナの勧めるまま、俺は魔王の鎧に袖を通した。大ぶりの鎧だったが不思議なことに、最初から俺のために仕立てられたかのように、ぴったり体に収まった。

 ついでに、散々俺たちを苦しめてくれた魔王の魔槍<唸る嵐>も頂いた。軽く振ってみる。長年連れ添った相棒のように、よく手に馴染んだ。

「これから……どうするの?」と、不安げにしてミナは足をもじつかせた。
「ま、お前と俺なら、なんとかなるだろ?」
そうねと小さく頷いて、ミナは口元をほころばせる。
「私、まずは世界がどうなったかを観て回りたい」
「そういえば、俺たちが倒した魔王、どこぞの大陸の奥で復活したって噂があるんだぜ?」
「えぇ? やだ、めんどくさいよ。私、あなたと静かに暮らしたい」
「そんなこと、出来る性分だったっけ?」

 他愛もない掛け合いをしながら、ふたり手を取り合って、俺たちは塔を後にした。

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