午後の最後の芝生 | 村上春樹の初期傑作短編を読み解く

村上春樹さんの初期傑作短編「午後の最後の芝生」の読書会に参加しました。読書会を通して考えたことの整理を目的にこの文章を書きました。

※ネタバレを含みます、というより読了されていることを前提として書かれた文章です。

この小説では主に3つのテーマが描かれていると思います。

①喪失感の共有
②戦争の影
③子どもというif


①喪失感の共有
小説の主人公「僕」と、僕が最後の芝刈りに訪れた家の女主人とは喪失感を共有しています。何の喪失感か。僕にとっては別れた(手紙で一方的に別れを告げられた)ばかりの彼女。女主人にとっては、恐らくはすでに亡くなっているであろう娘。この二人の女性のイメージが重ね合わされるように描かれています。そして、僕と女主人はそれぞれの喪失感を、夏の午後のほんの一瞬共有します。

<恐らくはすでに亡くなっているであろう>と書きましたが、それを示唆する描写は小説内に散見されます。

家の中には水でといたような淡い闇が漂っていた。何十年も前からそこに住みついてしまっているような感じの闇だ。(174p)
廊下と玄関は往きと同じように冷やりとして、闇につつまれていた。(184p)

これらの描写が、この家がかなり以前から時が止まってしまった死の家であることを示唆しています。また女主人が、赤の他人である僕を部屋に入れて、洋服ダンスや引き出しの中まで見せるという行為もその部屋の持ち主がすでに生きていないことを示唆しています。

娘は既に亡くなっているというのは、多くの方が抱かれる感想だと思います。ところで、この彼女(娘)は「いつ」亡くなったのでしょうか?

仮説:一ヶ月前(6月)に、おそらく18,19歳で亡くなった

根拠は、以下の描写です。

机の上に指を走らせてみると、指がほこりで白くなった。一ヵ月ぶんくらいのほこりだ。カレンダーも六月のものだった。(177p)

主人公が最後の芝刈りに出かけたのは七月なので一ヵ月前の六月に、娘が亡くなった時のまま、部屋の掃除がされていない、と読み解けます。

ところで主人公にとって手紙で別れを告げられた(だけの)彼女の存在は、娘をなくした(だろう)女主人の喪失感と重なりあうものでしょうか?ここで大胆な仮説を立ててみます。答えはイエス。なぜなら彼女もまた亡くなっているから。この午後の最後の芝生の時点では存命かと思われますが、この小説の執筆当時最後の芝刈りから十四、五年後(恐らく1982年)の時点では、彼女は亡くなっているのでしょう。

根拠は以下の描写。

彼女はちょっとした事情があって、ずっと遠くの街に住んでいた。
我々が会えるのは一年にぜんぶで二週間くらいのものだった。(153p)


この一年に二週間しか会えないという「事情」とは何か?村上春樹の小説の読者にとってこの主人公と彼女の関係とよく似たカップルをイメージするのは難しいことではないでしょう。

そう、ノルウェイの森のワタナベ君と直子。精神病を病んで京都の阿美寮に入院している直子とワタナベ君の関係を彷彿とさせます。というよりこの短編にその原型があるといえるでしょう。ちなみに直子もこの「彼女」も部屋にフランス語の辞書がある、という共通点があります。(風の歌を聞けで、自殺した女の子も仏文科なので、その系譜ともいえます)

さて、以上を踏まえると、この主人公の彼女もおそらくは精神を病んで、サナトリウムに療養していたものの、最終的には自らの命を絶ってしまい、小説執筆当時には既に亡くなっていた、と推察されます。

この二人の少女の死が、主人公と女主人が午後の最後の芝生で共有した喪失感と読めるのです。


※英単語から読み解き※
若干邪道かもしれませんが、本作品の英訳版"The Last Lawn of the Afternoon"からもこの喪失感のテーマを探ってみます。

本作品の重要モティーフとして「芝を刈る」という行為が繰り返し登場します。「芝を刈る」は英語で"mow a lawn"。実際英訳版ではこの表現が散見されます。

さてこの"mow"という単語。良く似た発音の単語に"mourn"という単語があります。その意味は「人の死を悼む、嘆き悲しむ」。

つまり英語ネイティブの方がこの小説を読むと、脳内で"mow"という"mourn"を連想させる音が繰り返しリフレインすることになるのです。これによって小説全体に喪に服す、というかどこか死者を悼む雰囲気が通奏低音のように響くのです。


②戦争の影

続いて二つ目のテーマ、戦争。このテーマは表面上では目立って描かれていないですが、以下のような描写にその陰を読み取ることができます。

「戦争と平和」をーたぶんー読んだりしているのだ。(150p)
FENのニュース・アナウンサーは奇妙なイントネーションをつけたヴェトナムの地名を連発していた。(160p)

後者はヴェトナム戦争への言及と考えてよいと思います。執筆当時と思われる1982年から14,5年前である最後の芝生の舞台は1968年、あるいは1969年と推察されるからです。ヒッピー文化・反戦運動の時代です。僕は表面上はこの運動に対して賛否いづれにしても積極的には関与していないようにみえます。ただFENのアナウンサーの発生するヴェトナムの地名が「奇妙」であると思う程度には、ヴェトナムの事情に精通している、少なくとも考えを及ばせていると読み解けるのではないでしょうか?

さてこのヴェトナム戦争。女主人の人生に大きな影を落としている可能性があります。というのも女主人の夫が「アメリカ人」であるという描写があるからです。※「中国行のスロウ・ボート」掲載時にはない描写ですが、「像の消滅」掲載時に加筆修正されています。

1960年代当時、あるいは娘の推定年齢18,19歳から逆算して1950年代によみうりランド付近でマイホームを持っているアメリカ人男性はどのような人物として考えられるでしょうか?

その人物が「軍人」である可能性は高いのではないでしょうか?主人公は彼女の夫のことを「うまく想像できなかった(172p)」と書いていますが、夫が日本人であるという先入観のためにうまくその姿が想像できなかったのではないでしょうか?逆にアメリカ人兵士という前提で考えると、くすの木のようにしっかりした体格の女主人の夫として、とてもしっくりとその姿がイメージできるのではないでしょうか?

さて、女主人の夫が米軍兵士だとすると、どうなるでしょうか?この小説の舞台は1968,69年。激化するヴェトナム戦争の時代。米軍兵士である女主人の夫がヴェトナムに出兵し、そこで戦死している可能性はきわめて高いのではないでしょうか?

つまり女主人は夫を戦争で亡くしていて、更に娘を何等かの理由で亡くしてしまった。そのように推察されるのです。アルコール中毒一歩手前のような描写がされているのも納得です。

※英単語から読み解き※
さて、ここでも英単語から読み解きを行ってみます。芝を刈る、という意味の"mow"には以下のような意味もあるのです。

多数の人をいっせいに殺害する

何とも物騒な意味です。連想を重ねると芝を「刈る」という行為もどこか命を「刈り取る」行為を連想させます。そして芝刈り機は大量の芝を効率的に刈り取る機械、どこか大量殺人を効率的に行う兵器を連想させる、といったら飛躍しすぎでしょうか?


③子どもというif


さて、3つ目のテーマです。この小説は、小説家であるらしい僕が十四、五年前を思い出す回想形式となっています。その構成自体は先にも触れたノルウェイの森の構成を彷彿とさせます。

ただここでの問題は十四、五年前を思い出すきっかけです。

毎日中学生を眺めていて、ある日ふと思った。彼らは十四か十五なのだと。(中略)十四年か十五年前には彼らはまだ生まれていないか、生まれていたとしてもほとんど意識のないピンク色の肉塊だったのだ。(150p)

こういう経験自体はわりによくあることだとは思います。昭和生まれの方は、平成生まれの後輩ができた時に同じような感慨を抱いたでしょうし、
令和生まれの十四、五歳と出会うのはそんなに遠い未来ではないでしょう。

この十四、五年前に生まれていたかもしれない子ども、というのは実はこの作品を読み解くポイントではないか?と考えます。

なぜなら、主人公と1年に2週間しか会えなくて(恐らくは自殺してしまったであろう)彼女との不和、というかすれ違いの大きな要因が「妊娠」だったのではないか?と考えるからです。2人が性的関係をもっていたことは描写があります(153p)。その際に自然な流れとして、避妊するかどうかから妊娠・出産に関するお互いの考え方を知ることになったのだと考えられます。ということを踏まえると作品後半に出てくる彼女の以下の手紙の文章がとても意味深です。

「あなたは私にいろんなものを求めているのでしょうけれど」
「私は自分が何かを求められているとはどうしても思えないのです」(186p)

乱暴に推察すると、僕は彼女との間に子どもが欲しかった、あるいは彼女ほど積極的にそれを否定はしなかった。その結果、(それだけが理由ではないとはいえ)彼女とは別れることになってしまった。そして、最後の芝刈りの現場で、子どもを亡くした(であろう)女主人と出会った。そのことを十四、五年経ってから、十四、五歳の中学生を見ていてふと思い出したのです。

やれやれ。
僕はほんとうにやれやれと思った。(150p)

僕がそこに見ていたのは、もし生まれていたのであれば、育っていたかもしれない自分の子どもなのかもしれません。


さて、子どもというifからさらに連想を続けます。
①喪失感の共有で、女主人の娘は18,9歳で亡くなったという仮説を書きました。実はこの娘の亡くなった年齢にはもう一つの仮説があるのです。

それは、もっと幼いころ十歳より以前に亡くなっていた、というもの。

仮説、というより妄想ストーリーに近いですが。以下しばしお付き合いください。米軍兵士であった夫と女主人の間に生まれた女の子。何らかの事故で幼くして亡くなってしまった。以降、夫と女主人はその悲しみに耐えるため、娘が生きていたであったら暮らしていたであろう「部屋」を作り続けてきた。娘が勉強したであろう英語とフランス語、娘が袖を通したであろう衣服。ところが二人で作り上げてきたifの世界が突然途絶えてしまう。ヴェトナム戦争に出兵した夫の突然の戦死。それが1968,あるいは69年の6月。そこでいよいよ女主人の時間は止まってしまう。夫と作り上げてきた娘の可能性としての机には1ヵ月分のほこりがつもり、アルコールを切らすことができなくなる。そして時を止め続けるように、主人が大切に刈っていた芝生をまだ刈り取る必要があるほど伸び切っていないにも関わらず業者を呼んで刈り揃えようとする。

ちょっと飛躍が過ぎるきらいはありますし、少し突けば崩れそうな仮説ですが、そう考えると以下の場面がしっくりくるのです。

「どう思う?」「彼女についてさ」
「感じでいいんだよ。どんなことでもいいよ。ほんのちょっとでも聞かせてくれればいいんだ」(181p)

ちょっと不自然なほど、初対面の僕に娘の「感じ」を聞くこのシーン。このシーンが、つい先月死んでしまった娘ではなくもっと昔、おそらく10年程まえに死んでしまって以後生きていたらこうなっていただろう?と想像し続けてきた娘の「感じ」を聞いていると思うとまた違った印象を持ったシーンとなるのではないでしょうか?

女主人にとって僕は、(恐らく戦争で)死んでしまった夫と同じ様に芝生を刈る人物です。更に偶然にも生きていたら娘と同年代。夫のように信頼のおけて、娘と同年代の僕に、娘の「感じ」を聞く。自分(たち)の想像は合っているのか?という祈るような気持ち。また僕という第三者の視線を通して、より立体的に娘を「生かそう」とする気持ち。そんな気持ちが読み取れるのです。


■芝生を刈る意味


さて最後に芝生を刈る意味についても考察を。

①マイウェイ
僕にとって芝生を刈る行為は、単にアルバイトとして小遣い銭を稼ぐ手段ではなく、手を抜くことのできない行為として描写されています。

適当にやろうと思えば適当にやれるし、きちんとやろうと思えばいくらでもきちんとやれる。
(中略)これは性格の問題だ。それから多分プライドの問題だ。(168p)

これは村上春樹さん自身の小説を書く行為と重なるように思えます。村上さんご本人が芝刈りのアルバイトをしていたかは分かりませんが、恐らくこの主人公のようにかなりしっかり作業されるのではないかと推察されます。

芝を刈るという行為は、自分流マイウェイを貫く行為のメタファーと読めます。というか、まずはそう読みますよね。深読みのイメージが次。

②アメリカ資本主義


マイホームと芝生をもって、芝を刈るという行為。これはある種、アメリカ資本主義の象徴といえるでしょう。人が生きていく上で芝生も芝をきれいに刈り取る行為も必要とはいえない行為です。そこに需要を作り出して、芝刈り機、あるいは芝刈りサービスという商品を販売する行為こそ資本主義です。

そしてアメリカ人の夫と同じ様に芝を刈る、芝刈り機を使いこなす日本人の若者。アメリカ資本主義が、日本人の若者に浸透していることの象徴として芝刈りが描かれているとみなすこともできます。①のマイウェイはアメリカ式個人主義ともいえます。

③時を止める行為


芝を刈る=一定の芝の長さの状態にとどめる、という行為に、娘と夫が生きていた時のまま家を保存したい、時を止めたいという女主人の願いを読み取ることもできます。

以上、長々と書き連ねてきましたが、読書会を通じて読み解き・考えを整理していく過程は本当にエキサイティングなものでした。

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