昭和のお金の本の教えを令和風に

昭和の良書でアマゾンキンドルで読めるものが多くなってきている。
なるほどと思うことが書かれている。
ただ時代の差はあって、それを令和の今風に環境に合わせた変化を加えて考え直すとしっくりきて、多分今を生きる人には共感してもらえるかなと思いこれを書く。

邱永漢さんという 台湾生まれで、日本で大学をでて、その後も、日本、台湾、香港、中国で、仕事と執筆活動をされた方がいる。
お金の神様とも呼ばれ、昔はテレビにもでていた。

この方を凄いなと思った最初は、糸井重里さんが運営していたサイト ほぼ日刊糸井の最初の頃(当時のネーミングは違ったような気がするが、ネット上で確かめられない URLは一緒のようだ。101というのに記憶がある)で、コラムを寄稿していたのだけど、かなり読み応えのある文章を毎日書き続けることだった。その記事が書かれていたのは、2000年3月から2012年4月まで75歳から87歳の死の直前まで、これだけ読み応えのある文章を毎日ほぼ欠かさず書き続けている。途中から、糸井さんのサイトから離れて、自分のサイトで。

それだけ読み応えのある文章を大量に、毎日、87歳まで書き続けられるということは、各ネタとなることを感じとれる、心も持ち続けているということだ。ものすごい、若い感性と、書くことへの意欲が自然にあったからできたのであろうし、それだけとってもどれだけ超人的な人だろうと、驚きながら、毎日読んでいた時期がある。

そして思ったのはこの人はお金の神様といわれて実際に金持だけど、お金より大切なものをたくさん持っている人だと言うこと。

もともと男性週刊誌に連載を持つときに編集者から、読まれる記事は、お色気か、お金の二つだけですといわれて、自分にはお色気はむりだから、お金のことを書こうと決めたそうだ。そして高い知性と自ら実践したことをもとに書くから、面白い記事となり読者を増やしていった。

もともとは小説家を志した文学大好きの人だった。

その邱永漢さんが、「賢者は中金持を目指す」という本を出している。大金持ちよりも中金持のほうが、気楽で楽しめることに大差なくて楽しいからということを言いたかったらしい。

これを令和の現代に当てはめると、『賢者はもう金持を目指さない。お金で買えない幸せを目指す』となるように思えた。
お金はないとかなり困るのだけど、平均以上もっていても、幸せ感はお金の増加にともなって、正比例して上昇はしない。それは昔からそうだったのだけど。 食べ物にも困る時代には、食べ物を買えるお金を持っているか否かは、幸福感どころか、生死にすら直結したことだろう。
ところが現代は、サイゼリヤにでも行けるくらいのお金あれば、その10倍のお金をもって、本格的なイタリヤ料理屋にいける人と、幸福感に差があるのか不明なんだ。サイゼリヤの方が気楽で楽しいように僕は感じる。それは僕がそんなにお金がないからもあるだろうけど、それだけでもない。そう感じる人は増えていると思う。

サイゼリヤみたいくらいの食事が安くできれば、別にそれがそれ以上うまくなっても、それにともなって幸福感は上昇しない。

時代が進むと、景気の波はあっても、生活に必要なものは安くて高品質なものが買えるようになってきた。今、欲しいのはむしろお金ではアクセスできないものだ。 邱永漢の本をよく読んだら、こんな文が巻末近くに含まれていた。
『金のある人ほどお金儲けに忙しくてお金を使うチャンスがないから、お金を持っている意味がない。そういう孤独で空疎な人生を送るよりは、お金がなくともしあわせで充実した人生を送るほうが絶対にいい。』

令和の時代も読み切れていた神だったのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?