マンホールからベンガルトラまで その10
先の長い動物カメラマンへの道
重い。
両肩にかけた2台のカメラにはそれぞれズームレンズがついていて、それらだけで重量は六キロを超えていた。
鉄アレイをぶら下げながらジャングルを歩いてるようなもんだ。
最近はあまり気にしていなかったけど、マンホールに落ちて怪我した右腕と脇腹が思い出したようにズキズキと痛み出している。
この怪我で二日間のジャングルウォークはハード過ぎたかもしれない。
まだ序盤なのにフラフラしている。
最後まで歩き通せるだろうか。
鹿はよく見かけた。
しかし、それも近づく前に逃げてしまうので、写真としてはもの足りない。
たまにあちらがこちらに気づく前にガイドは鹿を見つける。
私もそれぐらい出来るようにならないと野生動物カメラマンになるのは難しいんだろうな、と思った。
ワイルドピッグと呼ばれているイノシシもたまに出てくるようだがよく見ろと言われても私は姿を見ることさえできない。
ブホブホという声と共に逃げていく影が少し見えた気がするくらいだ。
同じようにブホブホという声が身近に聞こえてきたので、よし、今度は写真に撮ってやろうと身構えるとラージエンドラに「熊だ、動くな!」と言われた。
なのっ⁉︎ 緊張感が走る。
熊の動きがよめない私はラージエンドラの動きを見つめた。彼の動きに合わせる。
彼はこちらに手を上げて静止の姿勢を保ったまま動かない。
もう一度ブホッという声が聞こえたが、その後は何も聞こえなかった。
どうやら逃げていったらしい。
ラージエンドラの手が下がって、ふっと気が抜ける。
なかなか森の中で大型動物の写真を撮ることは難しそうだ。
大抵見つけた時には遠過ぎるし、もし近くでお互いに気づいたなら、それはまず逃げなければ危険だからだ。
小休憩の時にプサンに話しかけた。
「この仕事で怪我をしたこととかないの?」
ズボンを捲り上げると右足の膝上にある傷を見せてくれた。
「熊の巣穴を見つけた時にやられたんだ。巣穴から急に出てきてガブリさ。なんとかこの棒で撃退したけどね。」
木の棒の力を侮っていたが、熊を追い払うくらいの力はあるらしい。
しかし、二十五年も危険なジャングルでガイドをやっていてそのくらいしか怪我をしたことがないというのはやっぱり、プサンはすごいと思う。
私が賞賛の目を送っていると近くの小さな木造橋の上に登ってバランスをとったりして少年のようなことをしている。
出会った時にはわからなかったが面白い味のあるおじさんだ。
噛めば噛むほど味が出てくるスルメみたいなタイプだな。
森を抜けると道が現れた。
車が通れるような道だ。
その両端には私達の背よりも高い草が生い茂っている。
今度はその道をひたすら真っ直ぐに進んでいく。
少し行くと道の真ん中に黒い鳥の巣のようなものが落ちていた。
なんだろう?
「虎のフンだ。ドライだから一週間くらい前のものだろう。」
とラージエンドラがしゃがんでそれを観察しながら教えてくれた。
それが鳥の巣に見えたのは乾燥して残ったものが消化されなかった動物の毛だったからだろう。
肉食動物のフンとはこういうものかと感心した。
それと同時に既に私達は虎のテリトリーに入ってしまっているのだなと、思わず周りを見回して気配を窺った。
背筋がゾクゾクとして心臓の音が大きくなる。
そこの茂みから今にも虎が飛び出してくるような気がした。
「もうすぐで休憩地点だ。そこならゆっくり休めるよ。」
ラージエンドラが私の気持ちを見透かすように言った。
その休憩場所は物見櫓を大きくしたようなものだった。
三階建ての木造で急な階段を使って昇る。
一番上の階にはベンチが二つあって3人が休憩をとるには十分な広さだった。
そんな建物の階段を昇る時でさえ、まだ虎のことを考えていた私は、こんな階段くらいは簡単に上って来ちゃうんじゃないかと怯えていた。
もし上ってきたら、ガイドの棒で突っつけば撃退できるか。とかイメージトレーニングさえしている。
ともあれ最上階からの眺めは素晴らしいものだった。
360度が見渡せて、その周りは全て背の高い草で覆われていた。その向こうは森である。
「チトワン国立公園は○○ヘクタールあるんだ、とても広いんだよ。」
とラージエンドラが教えてくれた。
数字の桁がよく聞き取れなかったが、とても広いことだけはわかった。
「本当はここで虎が現れるのを待つんだけど、今の時期は草の背が高いから
虎が発見しにくい。2月、3月、4月がベストシーズンだよ。草を燃やしてしまうから虎が見つけやすいんだ。」
ラージエンドラは遥か先まで広がる草原を見渡しながら言った。
確かに草さえなければ虎は丸見えで、この場所からなら探すことは容易いだろうなと思った。
しかし今は草ぼうぼうで隠れん坊には虎に有利過ぎる。
「今日は1時間休んだら出発しよう。」
そう言ってラージエンドラは昼食のお弁当を出してくれた。
お弁当というほどのものではないが、二重のビニール袋に野菜炒めとご飯を混ぜたようなものが入っている。
うっ!私の苦手なインドのおじさんの匂いがする香辛料。
食べたらそうでもないかもと思って食べてみるがやっぱり気持ち悪くなってしまった。
食べる手が止まっている私を見てラージエンドラが心配してくれる。
「どうした?大丈夫か?」
なんと答えていいか考える私。
「えーと。お腹が痛くて食欲がないみたいだ。すまないが、残すよ。」
インドのおじさんがどうとか言う説明で納得してくれるとも思えない。
うまく話せる自信もない。
せっかくラージエンドラが早起きして手作りしてくれたであろう食事。
申し訳なさでいっぱいになる。
ラージエンドラはそうかと言って下の草むらにポイッとご飯の残りを投げ捨てた。
そして「アリたちが食べてくれるだろう。」と言った。
あんまり作ったものに思い入れはなさそうだ。
少し罪悪感は軽くなった。