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他者を信じること、伝えること

10代の頃から他人を信じるのが苦手だった。なんでも任せるよりも自分でやった方が早いと思い込み、明け渡すことが苦手になった。

大学生のとき研究室の同級生は7人だった。制作物や企画を作る際に他のメンバーに任せるよりも自分で手を動かす方が楽。なにより、クオリティーの低いものが上がってきたときにフィードバックしなければならないのが面倒。自分の方が良いものを作れるという傲慢な考えを抱いていた。

たしかに、客観的に観て一部はそうだったのかもしれないが、渡さなければ他のメンバーも参加できないし、成長しない。当時は仕事を抱えている自分に酔いしれていたのだった。

蛇足だが、恋愛の方面でも自分の抱えているものを晒け出すのがとても苦手だった。平静なふるまいを装い、その裏で大きな悩みを抱えている。この悩みを恋人に投げかけても、果たして理解してくれるのだろうか。投げたボールを受け取って、返してくれるのだろうか。分からず悶々とした。

それから7年の時を経て、2023年春。

これまでは自分の仕事を全うすることを中心に考えてきたが、役割にも変化が生まれたことでチームの他のメンバーへ仕事をお願いしたりフィードバックしたりすることが一段と増えた。

久しく忘れていたが、ここへ来てやはり大学生の頃と変わらず信じて渡すことがまだまだできていないのだと痛感した。仕事を渡せず自分で抱え込んでしまうこともあるし、どこまで渡したらいいのかと悩むこともある。

そんな折、渋谷で知り合いとランチに行った際、仕事をどう引き継いでいるのか聞いてみた。するとその知り合いは「渡すと思ったら、できると思って全て渡す。上手くいかないことも当然あると思っておくこと」と言った。

信じるとは。

脳裏に小説『風が強く吹いている』で、自分の走りにのみ関心を寄せてきた蔵原走がアオタケのメンバーと関わりあう中で「それをもっと信じたっていいじゃない」と言われるシーンを思い出す。彼の気持ちを少し追体験するような気分だ。

他方、この小説の中で寛政大・主将としてチームを引っ張る清瀬は情熱だけでなく、ほぼ素人同然のメンバーたちを信じて穏やかにそして粘り強く接していた。言うべきことは伝え、たとえ至らなくても本人の努力は優しく見守る。大人になればなるほど、小説家・三浦しをんが22歳の青年に託したリーダー像は果てしなく大きなものだと痛感させられる。

その後も信じるということについて考え、目に止まることが増えた。soarの記事でも“『信じる』とはなにか”というタイトルで対談が上がっていた。仕事で対談記事を作ることになり、たまたま参考を探していたときに見つけた。

この中で僧侶の松本さんは「『何が起こっても大丈夫』とか『大丈夫でなくても大丈夫』という感覚を持てているといいのではないでしょうか」と言っている。

渋谷でランチに行った知り合いが話していたことと通じた。

不安を背負っているのかもしれない。上手くいかなかったら、渡したことで何かが起きたら。これをフィードバックすることで相手が傷ついたら。そんなことを思うのである。

しかし、それでは自分の世界に閉じこもり続けることになる。『風が強く吹いている』の走のように「もっと信じたっていいじゃない」と言われそうだ。

フィードバックについて考える中で昨年取材した立教大・上野裕一郎監督の指導への考え方を思い出した。日本一速い監督として注目を浴びる上野監督は練習中に選手と共に走ることで有名だが、走っている最中や走り終えてすぐに気になったことや良かったことを選手へ伝えるという。

それは、思い立ったときが最も考えをまとめて伝えやすいからだという。

これもまた上野監督が選手を信じているからこそなのだと、ふと一連のことを考えているときに思い出した。選手を信頼していなかったら、思い立ったときすぐに口に出すのは難しいはず。監督自身が信頼を置いているからこそ、全て伝えても大丈夫(反対の視点で見れば、受け取れる)という関係が成り立っているのだろう。

不安にならずにもっと口に出していいのかもしれない。気になったことを感じたときにすぐ出していく。スタートは受け取れるはずだと相手を信じるところからなのかもしれない。

他者と関わることへのハードルが高い自分にとっては長年の課題だけれど、改めて考え続けたい話題でもある。

もっと信じたっていいじゃない。


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