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天狗だったあの日の自分へ

以前から気になっていた『大学1年生の歩き方』を読んだ。ちょうど明日から4月。この土日に街ですれ違った人たちの中には本当に明日から大学1年生になるひとたちもいたのだろう。

自分はというと、大学1年生になったのは10年前。2014年に地元宮城の公立大学へ入学した。頭の中では鮮明にあらゆる場面を憶えているのに、もうそんなに経つのかと文字通り遠い目で過去を振り返った。

読み終えた感想から言えば、自分の大学1年に最も必要だったのはここで書かれている内容そのものだった。僕はゴールデンウィークにできた彼女と3ヶ月で別れたし、この大学にいる周りの子たちなんて大したことなくて授業もつまらない。もう辞めた方がマシだと思い必修の授業をサボり、TAの仲の良かった先輩からLINEで叱られたこともある。大学という開かれたはずの場所から逃げるように閉じた方向へ逃避した大学1年の前期だった。

そんな自分の“しくじり”体験を記憶の片隅に投影しながら読み進めると前半はともすれば、この方法であれば上手く無難に過ごすことができるHOWTOものと読めなくもなかった。例えばファッションの話やサークルの話など。しかしながら、この本で語られているのは「歩き方」であり、1年生とは大学がどんな場所であるかを理解していく時間である。まずはその場に浸ってみることが大切だ。

そんなことを咀嚼していくと、自分の大学1年生のころがいかに歩いていたのではなく「飛び降り」だったかが見えてくる。ここから少し過去の話を綴る。

自分は高校3年生の1年間被災地で行った地域活動が評価され、推薦入試で大学へ入学した。毎月マスコミに取材を受けテレビやラジオ、新聞に出た。東北の他地域や東京で活動する同年代の人たちとも友人になった。ありたいていに言えば周りにはキラキラしている人たちばかりで、自分もその一員だと信じて疑わない天狗な18歳。

また、大学の入学式翌日(だったと記憶している)に、自分が運営メンバーだった大規模なイベント(震災復興関連のことを高校生100人くらいが話し合う)を東京で控えていて、大学のオリエンテーションを初っ端から欠席して東京に行くというかましぶり。今この事実を書くと身の毛がよだつ。

そのイベントには講演に時の首相夫人を招き、各テーブルのメンターにはテレビで頻繁にコメンテーターとして見るような著名な社会学者をはじめ(名前を書いたら誰でもわかる方ですが本題ではないので伏せておきます)各界の有識者に入ってもらうという……。まあ、18歳にして勘違いしたわけです。自分自身が著名人のような。

そんなわけなので、地方の大学にいる周りの人とは違うんだ(お前もそこの一員なのに)と言わなくても、その空気を発していたと思う。2、3年経ってから知ったことだけど、1学年上の先輩たちからは「やばい1年生が入ってくるらしい」と入学前から噂されていたらしい。

と、入って早々いろいろな意味で“やばい1年生”だった自分。

もう、はなから歩き方なんて無視をして「飛び立ってやる」気でいたわけで。しかし、そんな離陸するためのスタートダッシュも長くは続かず、今思えば崖からの「飛び降り」のような行為だった。

ゴールデンウィークが過ぎ彼女もできたがなんか満たされない。それは、自分は周りと違うんだという見下す気持ちが起因して、周りから完全に浮いていたこと。

この本にも、社会人ぶって勘違いする子がいるという話が出てくるが、そこで書かれているそうした人たちの姿が全くもって10年前の自分なのである。自分は「大人とも対等に渡りあっている」と自負していたけど、全然そんなことなかった。

一方で、その見下しは自分の焦燥感から来るものでもあって。高校生の頃は自分で団体を立ち上げて、活動をしていたから評価されていたけれど、いざ場所を変えて大学に入ると自分の中には何もない。でも、すごいやつとしてみられる。そんな鎧を守るためにはどうしたらいいのか。

モヤモヤしていた。

大学を辞めて起業しようともしたが(本当に思い止まってよかった!)、多くの大人に「稼ぐのは大人になったらできるから、今は知識を蓄える時間じゃない?」と言われたのだった。

当時の自分は、読むのは自己啓発本やリーダーシップに関するもの。もっと小説や新書、難しい専門書を読めば良かったといまだに後悔する。

アウトプットをしないと誰にも見向きされない。インプットばかりでは、この世から自分が消えてしまうと(比喩ですが)本気で思っていた。キラキラしなくなる自分が怖くて仕方なかった。

今になって思えば、その頃のキラキラなんて大人から見たら豆電球くらい。全然大したことなかった。

この本でも、思考の練習として夏休みに難しい本を読むといいと書いているが、あの頃周りの大人たちに言われていたのはこういうことだったのかと20代中盤になって気づいた。

それから、10代の頃にキラキラしていたり、自分の名前で稼げていたとしてもそれでどこまで続くのかは別問題。とくに当時の自分は、大したアイデアも実力もなく、若さや大学生であることを売りにしたビジネスくらいしか思いつかなかった。それを始めて、はたしてどこまで生き残れただろうかと思う。きっと今ごろのたれ死んでいただろうなあ。もしくは、ビジネスはビジネスでも危うい方向へ行っていただろう。

そういう意味で、根気強く自分を見守ってくれて、知識を蓄えるように促してくれた人たちには感謝しかない。

無難になれとも思わないし、何もするなとは思わない。しかし、この本を読んで、当時の自分に会えるとしたら「そのスタートダッシュ全然意味ないよ」と言ってあげたい。あと、もっと周りの人たちと仲良くした方がいい。

仙台にいたって、こんな人がいるんだあとか、すごい人がいるもんだなあと感心する出会いはその先いくらでもあった。自分がすごいと立ち止まらず、世界を広げてくれるいろんな場所に首を突っ込んでいったほうがよい。

けれども、そんな黒歴史の塊みたいな大学1年生の木幡くんにもターニングポイントとなるような親友(戦友?)との出会いがあったり、その頃の天狗の裏にある悩みや脆さも今振り返れば可愛いなあと思うことばかりで。ちょっとはそんな10代の感情の揺れ動きも愛おしいのである。

こんな流れでいいのか?と思う感がなくはない文章だが、これが自分の大学1年。

10年経っても友達づくりは本当に下手なので、どうにかしたいと思うアラサーの今日この頃だ。

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