対話には「できる」という動詞より「おこる」が似合う気がした話。
今回の参加者は6名くらいだったろうか。ポツポツと人が集まりtaboo持ち寄りぶんじ寮はスタートした。人に点数をつけてエクセルで管理している人の話、自分の成したいことのために人を機能・手段と捉えているような人の話、真面目な雑談がしたい、対話と会話、何がどう違うんですか…など参加者が場に思っていることを置いていく。
対話:Dialogue:the talking in a book, play, or movie…劇や小説の中でのトーキングと英英辞典では書かれている。 先日、平田オリザ氏の講義を受けたが、その中では「知らない人との間の情報の交換や知っている人同士でも価値観が異なる時の摺合わせ」と定義されていた。
会話:convarsation:a talk between two or more people…2人もしくは複数のトークである。先日の講義では「親しい人とのおしゃべり」とされた。Con-var-sationの語源は「共にターンする」らしいので、会話は、共にターンする(変わる)気のある者どうしの間で起きるものと個人的には理解している。そう思うと、日常にほぼ会話はなく、たくさんの主張があると思える。
対話と会話
・対話は席につくイメージ。会話はなんとなくそこにいるようなイメージ。
・対話は同じ立場で場にいること。会話は日常の肩書等を引きずったままなされるもの。
・対話の目的は対話
・出すことで整理されたり、カタチになっていくもの。(傾聴・注目される・聴いてもらえている感覚がある)
・率直な自分の想いが出される”場”、出すのではない、出されるのだ。
・安心した人間関係
・聴く > 話すがある。
このようなイメージがエピソードとともに語られた。また、対話の場における”沈黙”の存在についても多く語られ、それは興味深い話だった。
対話は「できる」のか「おこる」のか
僕は対話は「できる」か「できない」という動詞がつくことに違和感を持ちながら過ごしていた。「できない」と諦めたこと、「できなかった」と悲しくなったことはたくさんある。そして「できた」と思えたことは、残念ながらない。
オープンダイアログの本を何冊か読んだ。
対話には、土台がある。「その人のいないところでその人の話をしない」「1対1で話さない」だ。他に意識することとして「ポリフォニーを意識する」や「不確かさの中に留まる」などがある。別の機会では「想定を保留する」と聴いた。
そうだ。対話には、対話が「おこる」「おきる」ための条件があるのだ。またその条件がそろったから「おこる」とは限らないようにも思っている。対話を意識している方々は、質問さえ脅威になる、と書いていらっしゃる。
「できる」になるための経験値がたりないのか、スキルが上がれば「できる」のかはわからない。ただ、現状の私は、条件のそろった場で対話を起こそうとした時にだけ、対話は「おこる」ものだと認識している。対話について話したら、過去の傷が少し疼いた。
最後に印象に残った言葉を…
対話が起きる環境が作れないのも、対話ができる余裕がないのも、急いでいるのか質問で攻めてしまうのも、全部「時間が足りないからじゃないかな…」と参加者の1人がいった。みんななにかに追われているんでしょうかね。モモを思い出した。
ほな!
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