フランクル「夜と霧」を読んで
「どんなに私たちが人生に絶望しても、人生が私たちに絶望することはない。」
ヴィクトール・フランクルと「夜と霧」
ウィーンに生まれ、フロイトやアドラーに師事し、臨床家、精神医学者として活躍をしていた著者ヴィクトール・フランクル。ナチス支配下の収容所内の筆舌に尽くしがたい環境の中、人々がそれでもなお生きようとする支えになるものは何か、他人が最後まで個人から奪えないものは何か、生きる意味をどう見出すかについて力強く書かれた著書。
生きる意味について悩んでいる人の背中を力強く押してくれる、
時代を超えた普遍的名著だと思います。
本書を紐解く、人生の3つの価値とは
人生の意味を見つけ出すために3つの価値から考えることが理解しやすいと思います。
創造価値・・・創作活動や普段の仕事を通じ実現される価値
本書内の例)本書内のフランクルが没収された原稿を復元しようとする取り組み
体験価値・・・「何か」や「誰か」との出会いによりもたらされる価値
本書内の例)収容所生活の中で引き離された妻の姿を想起し、心の支えとする
態度価値・・・日々の出来事に対し、その人がどのような態度をとるかによって実現される価値
本書内の例)苦しい日々の中でも励ましのことばをかけ、飢えた人々に自分のパンを差し出すような態度、ガス室に入っても最後の瞬間も毅然と祈りの言葉を口にする態度
最も重要な態度価値
この3つの中で、最も重要なものが態度価値であるというのが本書のメインメッセージでした。
(強制収容所のような)マズローの5段階欲求の低次の欲求も満たされない環境では、人は創造価値や体験価値の実現は奪われた状態となる。そのような場合においても、態度価値の実現は奪われない。
典型的な被収容者となるか、
あるいは収容所にてなお、
人間としてとどまり、
おのれの尊厳を守る人間になるのかは、
自分自身が決めることであった(p111)
つまり、態度価値はどんな時も、自分自身に決定権があり、他者からの強制や干渉、自身の環境や所有物などの偶然の僥倖に依存しない、きわめて常時的、かつ主体的な価値である。
さらに極限の状況だけでなく、長い収容所から放免された後においても被収容者に強く問われる価値。それは、態度価値であった。
最終章で語られる場面の要約。
長い収容所生活から解放され、うまい飯をたっぷり食べ、経験をよく話し、ぐっすり寝たあとで、元被収容者は、手にした自由の曖昧さやその反動の責任、自分は不幸な体験をした哀れな人間だから何をしてもよいという過剰な劣等コンプレックスの発現、収容所生活時代に支えとなった希望の数々の喪失などに悩まされる。
放免という念願がかなった後でも、被収容者に問われたものが態度価値であることは非常に興味深く感じた。
最後に
人生に対し、生きる意味を問うことをやめ、人生から何を求められているかを考え、どんな苦しい状況や逆の恵まれた環境においても毅然とした自分自身の態度価値を実現していくことが、人生の本質であることを説いた本だと思います。
心に残った箇所の引用
(収容所を)抜け出せるかどうかに意味のある生など、
その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、
そんな生はもともと生きるに値しない(p113)
偶然の僥倖に左右されない、自分次第のものに目を向けよう
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを
百八十度方向転換することだ。
わたしたちが、生きることから何かを期待するのではなく、
むしろひたすらに、
生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ、
ということを学び、
絶望している人間に伝えねばならない(p129)
生きる意味を探してはならない。人生から問われていることに耳を澄まし、全力で応えていこう
ひとりひとりの人間を特徴づけ、
ひとつひとつの存在に意味を与える一回性と唯一性は、
仕事や創造だけでなく、
他の人やその愛にも言えるのだ(p134)
その人には人生の中にその人を待つ何かがある
自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は
生きることから降りられない。
まさに自分が「なぜ」存在するかを知っているので、
ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ(p134)
サイモンシネックのゴールデンサークルでも言及のある通り、なぜが最も人を動かす原動力となりうる。
人間とは何ものか。
人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。
人間とはガス室を発明した存在だ。
しかし同時に、ガス室に入っても
毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ(p145)
何かを決定した結果、不幸な価値が世に提供されるかもしれない。それは選べない。ただし、どんな状況でも自分が良いと思う態度でいられることが人間の素晴らしさである。
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