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人生変えたいあなたへ 〜宮本真貴の生き様note〜


断言します。


「人生は変えることができる」
人生のドン底を経験した僕が変わることができた。だから大丈夫。

初めまして、宮本真貴(まさたか)です。

僕は人生のドン底を味わいました。
経営していた会社の倒産、3000万の負債、破産、労働審判、躁うつ病、これら全てを一気に経験しました。
問題がひとつ解決したら、また問題が起こる。例えるなら一生続く、長く暗いトンネルの中を彷徨っているような気持ちでした。そんな状態が1年弱続きました。
「もう人生を終わりにしよう・・・」そんなことばかり考えていました。
2022年の僕はこんな状況でした。


こんな状況だった僕でも変わることができました。1年必死に生きれば、いや1日1日を必死に生きれば、日々人生は必ず変えることができる。

僕はそれを体現しています。そんな僕の生き様を振り返ってみました。
少々長くはなりますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。




 

幼少期 0〜7歳 〜初恋〜 

1992年7月21日、宮本家の長男として爆誕しました。記憶は断片的ですが、保育園に入ってからは友達と常に走り回ってましたね。人生初の恋は4歳の頃。保育園のお昼寝の時間にその子の隣に布団をひいてとリクエストしていました。ポケモンにもハマって、めっちゃやってましたね。ポケモンのグリーンとレッドが懐かしい。

 

小学生時代 〜異端〜

誰よりもわんぱくで、いつも学年の中心にいるような子でした。運動が大好きで、休み時間はサッカーにキックベースに鬼ごっこ。汗だくで泥まみれになりながら走り回っていました。

小学3年生から野球を始め、エースで3番を打ち、チームの中心選手でした。とにかく野球が好きで、放課後も友達を集めて野球をしたり、家で1人で壁あてをしたり、ずっと野球をしていました。
入ったチームが今まで公式戦で一度も勝ったことがなかったんですが、5年生の新チームになって初の公式戦で勝利することができ、泣きましたね嬉しくて。グランド整備しながら泣いてた記憶があります。それくらい勝つことを渇望してました。

小学校で1番印象に残っているエピソードは校長先生の授業。担任の先生が出張の時、代わりに校長先生が授業をしてくれたんですけど、ある時こんな質問が飛んできました。「みんなが社長ならどんな人と働きたいですか?」クラスの全員が「言うことを聞く人」と答える中、僕だけこう答えました。「自分の意見を持っている人」今思えば、僕は小さな頃からずっと変わり者だったのかも知れません。
 

中学生時代 〜生命〜

中学校はとにかく楽しかったです。野球部では2年からレギュラーになって、駅伝にも参加して、これも2年からメンバーに選ばれて。初めて彼女ができて、毎日が本当に楽しかった。

反抗期もしっかり経験しましたね。普段家族とめっちゃ仲良いんですけど、中学に入ってから半年くらい全く家族と口を聞きませんでした。この反抗期が終わるきっかけになったのが4番目の妹が生まれたことでしたね。中1の時に母親の出産に立ち会いました。笑 なかなかいないですよね、こんな経験してる人。自分でも不思議無感覚だったんですけど、めっちゃ感動したの覚えてますね。命って尊いなって感じました。

人生で初めての挫折も味わいました。2年の秋頃、野球で投げ方がわからなくなって、全然投げれなくなっちゃったんです。思うように投げれなくて全然上手くいかない。そんな時がありました。しばらくピッチャーはせずに外野を守っていました。これは投げないことで結果的に治りました。3年の春からエースに返り咲きました。これもいい経験でしたね。

 

高校生時代 〜挫折〜

高校はマジで野球の思い出しかないです。しかも挫折の思い出。推薦で入って、さあこれから!って思ってた1年の春、また投げ方が分からなくなって全然投げれなくなっちゃったんですよね。いろんな方法を試して、なんとかしようと努力しましたが、思うようにはいかず。結局最後の3年生の夏が1番ボロボロの状態になってました。まあこれもいい思い出。

野球が終わってからですかね、めっちゃ青春!って感じの生活を送ったのは。初めてバイトもしたし、久しぶりの彼女もできたし、放課後は毎日教室で暴れまわってました。笑 文化祭も楽しかったな〜。応援団のメンバーで遊びまくってました。

しんどいこともあったけど、全部含めて楽しかったですね。
 

大学時代 〜狂酔〜

大学を感じ一文字で表すと「酔」ですね。マジで年間360日飲んでました。愛知の中京大学に進んで、初めての一人暮らしを経験しました。バイトして飲んで、サールルで飲んで、何もなくても飲んで。本当に気狂いでしたね。大学があったエリアって中京以外にも大学が4つくらい集中していて、学生向けの安い居酒屋多かったんですよね。僕が悪いんじゃなくて、町が悪い。(究極の他責思考)住んでた八事と塩釜口というエリアはマジでネバーランドでした。ただ、お酒が好きというよりは、みんなでテーブル囲んで、飲みながら話す場が好きだったんですよね。だから生半可に飲んでた訳じゃなくて、真剣に飲んでました。

アルバイトも真剣でしたね。某高級焼肉屋でバイトしてたんですけど、接客を真剣に追求してましたし、お客さまに喜んでもらうことに必死でした。シンプルに楽しかった。バイト先でもアルバイトと社員を集めてめっちゃ飲み会開催してましたね。

大学の頃の体力も半端ないなって思いましたね。15kmランニングして、バイト先まで12kmチャリで行って、11時間働いて、飲んでって生活ずっと続けてました。笑 我ながらマジで体力お化け。

振り返ってみると大学もめちゃくちゃ楽しかったですね。サークルもアルバイトも充実してたし、ロードバイクで愛知から福井の実家まで170km漕いで帰ってみたし、フルマラソンも走った。いろんなところに旅行にも行けた。

4年間大吉でした。

 

社会人 part1 メーカー営業時代  〜転機〜

新卒で入ったのは第一志望の会社でした。日華化学株式会社という、地元で大手の会社。界面活性剤の国内シェアNo.1の会社で、ユニクロやナイキやノースフェイスと取引があって、割と大きめの会社でした。そこの化粧品部門で法人営業をしていました。実は小学生くらいから化粧品に興味があって、ドラッグストアで化粧品を見るのが好きだったんですよね。それもあってこの業界に決めました。仕事は周囲に天職だと話すくらい楽しくて、毎日が充実していました。ただ、ロープレが死ぬほど苦手で、テストでは同期の中で再会になりました。それをバネにめちゃくちゃ働いてましたね。誰に言われるでもなく飛び込み営業をしてましたし、とにかく量をこなしてました。社内では「ブレーキが壊れてる」って言われてました。笑

でも、それが功を奏したのか、当時重要だった福岡支店の立ち上げメンバーに選ばれました。立ち上げはめちゃくちゃワクワクしたし、福岡に住んだのはいい思い出でしたね。福岡でもちゃんと毎晩飲み歩いてました。

ただ福岡に配属されて1年がたった頃ですね、転職を考えるようになったのは。とにかく移動時間が長くて、月の半分は鹿児島に行っていたので、めちゃくちゃ考える時間が長かったんですよね。「このままでいいのか」「大きな会社にいることがリスクになるんじゃないか」「もっと自分で何かできるようになりたい」これをずっと考えてました。

そして転職を決意しました。 


社会人 part2 飲食時代 〜鍛錬〜

転職活動の時にいろんな業界を結果、入ったのが飲食でした。理由はイメージしやすかったから。あとは人は1日に3回食事をするから、その1回に選ばれればいいって考えたらシンプルじゃない?って考えてました。今となってはすごく甘い考えですよね。学生の頃の飲食店でアルバイトしてたのも楽しかったんですよね。

飲食業界では、結果的に4店舗の立ち上げ、お弁当事業の立ち上げに携わりました。立ち上げって楽しいんですよね。何か新しいものが生まれる感覚。オープン直前なんか1週間睡眠時間2〜3時間で走り切るとか、プレオープンの時に高熱出してボーッとする中で営業乗り切ったとかいろんなことがあったけど、これもいい思い出です。

お弁当事業の立ち上げもなかなかハードでした。最初1人で立ち上げ準備に入ったんですけど、1日60件飛び込み営業したり、朝6時半から夜の19時まで休憩取れずに走り回ったり。今思うととんでもないことやってたなって思うけど、当時は楽しさが勝ってたんですよね。毎日アドレナリン出まくってました。

ただ、こんな生活のままで続くはずもなく、結婚して来月子供が産まれる。そんなタイミングで起業して独立することに決めました。

 

社会人 part3 起業、間もなく倒産 〜破壊〜

最初に始めたのはせどりでした。売り上げが伸びてきて、融資を受けて、徐々にメーカーや商社と取引をするようになりました。

起業当時、収入はたった10万円でした。いや、ざっくりとした計算だったので、経費を引いたらもっと少なかったかも知れないです。自分でも本当にアホだと思うですけど、もう本能でそうするって決めちゃってたんですよね。

独立して最初の3日間高熱で全く動けなくて、マジで人生の危機を感じました。笑 個人事業主ってこういうことか!!ってまさに洗礼を受けましたね。奥さんと謎に泣いたこともあったし、カオスなスタートでした。

しばらくして子供が産まれて、必死に毎日かけずり回ったんですよね。そしたら初月から売上も増えて、月収も会社員時代を越えて。半年後には月商1000万を越えてすぐに法人化しました。

でも、全く満たされませんでした。商品を仕入れて売るだけのビジネスモデルだったので「世の中に対して何も価値を生んでいない」「これってやる意味あるのか」そんなことばかり考えていました。それに拍車をかけたのは商工会の青年部でしたね。入ると大学生の女の子が英会話スクールで起業していたんです。心から楽しそうだったし、確実に人の役に立っている。なのに自分は何やってんだろう。。。比べてしまって、また自己嫌悪に入ってしまってました。

そこからしばらくしてですね、自分がネット物販に全くタッチできないような精神状態になったのは。当時の従業員の子に任せっきりになってしまいました。僕は朝起きてもベットから何時間も出れなくなり、日中も外に出たはいいものの体を起こしていることができず、車の中で横になることしかできない状況でした。典型的な鬱の症状です。後からわかったんですけど、僕は躁鬱でした。

そんな状況にも焦って、何かやらないとと思ってエステサロンを始めたり、営業代行をやったり、動画編集をやったり。何かにすがりたいという気持ちしかなかったです。もう経営者失格です。

結果的に全部が回らなくなって、負債も膨れ上がって金銭的にも精神的にも倒産させるしかない状況になりました。法人も個人も破産手続きをしていますし、従業員の子と揉めて労働審判にもなりました。銀行の人も毎週家に来るし、クレジットカード会社からは毎日何十件と連絡が来るしでドラマのような状況。一生続く長くて暗いトンネルを彷徨っているような感覚でした。間違いなくあの時が人生で1番しんどかったです。

でも、このままじゃいけない。何も成し遂げずに死んだら一生後悔する。その思いで再起を誓いました。

 

社会人 part4 再起、そして未来へ 〜再興〜

再起するために自分の全てを変えなくちゃいけない。そう考えてまず環境を変えることにしました。本当に申し訳なかったけど、家族に構う余裕が全くなく、単身で東京に出ました。知り合いが少なく、自分に100%集中できる環境に身を置く以外無理だと感じたんです。そこから生活の全てを変えました。食事・睡眠・運動・持つモノ・使う言葉・取る情報・付き合う人。とにかくいろんなモノを捨てました。

人生は等価交換です。だから本当に何かを得たかったら、先に何かを捨てなくちゃいけない。大きなものを得たかったら、自分の大切なものから手放さなくちゃいけない。そう考えて決断しました。

東京に出てからも苦しい日々が続きます。ちょっと状態が良くなったと思ったら、また悪くなる。仕事もなかなか上手くいかない。それでも毎日必死に必死に食らいつきました。見えない大きな敵と戦っているような感覚でした。

でも、この経験があったからこそ、健康の重要性に気づけましたし、本当の意味で自分の人生を生きることの重要さを理解しました。

そして2024年1月6日。この日に決断したのが、GOAL-Bのコーチングを受けることでした。コーチングを受けてから目まぐるしく人生が前に進み始めました。今までは1歩進んで3歩下がっている感覚。でも、これがとんでもないスピードで前進しているのを肌で感じるんです。

そんな中で募集が始まったのが、JCCキャリアコーチ養成講座でした。日本で1番本質的なコーチングを提供する会社GOAL-Bが提供する、キャリアコーチの養成講座です。仕事中だったんですけど、動画を見て反射的に応募していました。結果、全国400人の応募から60人の枠に選ばれることができました。メンバーは大半が会社を経営していたり、役員クラスの人でした。

講座の内容も異質でした。今までいろんな講座に投資してきましたが、まるで学びの質が違う。マジで追い込まれて、このまま合格できなかったらどうしよう、、、と弱い自分が何度も出てきましたが、たくさんの仲間に支えたもらった結果、3月10日に全てのテストをパスし、JCCの認定とGOAL-Bの認定をもらうことができました。そして、3月からGOAL-Bのメンバーとして正式に参画することになりました!長い間苦しみましたが、やっとスタートラインに立てたという感覚です。本当に本当に諦めずにここまできてよかった!


最後に 〜投企〜

人は変われる。変われない人なんていない。全ての人は自分のGOALのために生きるべきだ。

僕はこれを心から確信しています。ドン底だった僕が変われました。そしてたくさんの方に変わるためのサポートをしてもらいました。今度は僕が人生を本気で変えたいと渇望する人のサポートをしていきます。誰よりも人生の変革をサポートするコーチとして生きていきます。

コーチとは生き方を追求する人のことだと考えています。だからこそ、僕は誰よりも今の自分を高め続け、生き様を更新していかなければなりません。理想のために必要な変化は全て掴みにいきます。

こんな長い文章をここまで読んでくれてありがとうございます。心から感謝しています。ここまで読んでくれた方はきっと何かを感じてくださったのかも知れません。中には何かのきっかけを探している人もいるのかも知れません。

最後にもう一度だけ伝えさせてください。

「大丈夫、きっとあなたも変われる」


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