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急性硬膜外血腫 07

「ヒサちゃん、このまま帰ってしまったら僕は何するか分からないよ」

ヒサコさんは怖かった。実際に錯乱を起こして血まみれになっているしこの子はパニック障害者でもある。本当に何かをしでかす可能性は否定できない。もしなにかあれば私の責任だ。

でも今この状態の、パラレルワールドに迷い込んでいるこの子の傍にいることが怖かった。ヒサコさんは病院の規則上患者と一緒に泊まることはできないのだが、婦長さんに状況を説明して簡易ベッドをマサの病室に用意してもらってその晩はマサの傍に付きっ切りで看病した。眠るわけにはいかない。

マサの右手を一定のリズムで叩きながらなんとかマサを寝かしつけようとした。マサはこのとき不眠症だったのでマイスリーという睡眠薬を服用していた。睡眠薬の服用したあとはできるだけ光は見ないほうがいい。ヒサコさんは電気を消したくなかった。

マサに聞いたらマサは全部の電気を消してくれという。真っ暗になることがヒサコさんを余計に不安にさせるのだが、この状況でマサの要求を拒否できる人間はいない。ヒサコさんは電気を消した。そしてマサはやっと眠りについてくれた。

深夜看護師が患者の見回りにやってくる。そのとき看護師は点滴をチェックしなければいけないのだが、マサの点滴は右手に刺してあってヒサコさん用の簡易ベッドも右側にある。看護師にとって足の踏み場がなくて何度が器具どうしが当たる音がしてマサが目を覚ましてしまった。

ヒサコさんがもっとも怖れていたことだ。マサは当時寝返りはおろかリクライニングのベッドを起こすのにも苦痛に顔を歪めて一気にベッドを起こすことはしないで大抵三、四回に分けてベッドを起こしていた。しかしこのとき目覚めたマサは違った。

いきなりむくっと腹筋を使って起き上がった。痛みを感じてない。ヒサコさんには人格が変わっているように映った。今度はチュッとヒサコさんにキスをした。看護師の手前、ありがとうとしかいえない。

マサはそこに看護師がいることにも気づいていないようだった。そしてヒサコさんが聞いたことがない気味の悪い甘えた声で「ヒサちゃーん」と何度も繰り返した。

ヒサコさんは怖かった。完全に人格が変わっている。それでも取り乱すわけにはいかないので不覚にもマサに優しい言葉をかけてしまった。ヒサコさんはいつもマサにいっていた。

もし私がいつものように意地悪だったらそれは本当の世界。もし私が親切だったらそれはパラレルワールドよと。だから今度はマサが怯え始めた。

「ヒサちゃん怖い」

ヒサコさんはこの意味を瞬時に理解した。私が優しい言葉をかけてしまったからだ。そこでヒサコさんが自分も泣き出しそうなくらい怖い思いをしながら、「はい、はい、私は今意地悪でしょ。とっとと寝なさい。ここは本当の世界。だからおとなしく寝なさい」。その言葉を聞いてマサはようやく眠った。ヒサコさんがこの夜の恐怖は忘れられないという。

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