ションベンカーブ 03
捕手はカウント一ボール二ストライクから、定石どおり、外のスライダーを要求した。今日のスライダーは切れていた。打者にはホームベースの手前までは真ん中辺りのストライクに見えているが、そこからいきなりぎゅっと曲がって、バットが絶対に届かない外角へスライドする。
ストレートと同じ身体と腕の使い方で、リリースの瞬間、指先でボールを切るように投げ込む。打たれる気がまったくしなかった。確かに野球人生で最後に投げたこのスライダーは誰にも打てなかっただろう。
俺の頭の中で、理想的なスライダーの軌道が思い描けていたが、ボールは俺の指先からやっと離れた程度の力ないざまで、打者に届きもせずに、力なくホームベースの手前に転がった。若い木の枝が折れるようなからっからに乾いた音は、球場を静かにさせた。
スポーツとは不釣合いな異常に不穏な音だ。センターの赤井まで聞こえていたらしい。俺は、声を上げているつもりはなかったが、喉から、搾り出されるような奇妙な濁音が漏れていたということだ。
ボールが指から離れるとき、腕が一瞬、ひどく軽くなった。ふわっと、腕が羽毛のように軽くなった。次の瞬間、スライダーを投げ込む方向とは対角線で逆の方向に、上腕が折れた。センターまで音が聞こえるのだから、俺には轟音だ。
上腕骨の骨の繊維が、捩切れるような、繊維の擦れる音が、骨折音の高音に混じっていた。来ると直ぐに分かったが、音の後に、今までに味わったことのない、滅茶苦茶な痛みが襲った。
ボールはホームベースに届いていないから、ボークだ。俺は主審のジャッジを確認しようとして、マウンド上で蚯蚓みたいに悶えながら、顔を起こした。主審ではなく、打者と目が合った。打者は「うゎ、きしょ」といって、打席から飛び出した。
主審はボークのコールの前に、試合を止めた。大人の男が出すのよう声では到底なく、普段クソ生意気な俺の印象とだいぶ違う悶え方をしていたので、ナインは誰も声を掛けてこなかった。
監督に至っては、「大丈夫か」と訊いた。救急車の音が球場に近づいてくるのは覚えている。その後、急に身体が冷えてきて、猛烈な悪心が続き、気を失った。
まどろみが俺を捕らえる瞬間、右腕が取り返しがつかないことになったんだと確信した。短い生を終えた蝉みたいに固まって、俺はマウンドでひっくり返っていた。真っ青な空の中心には、初夏の太陽が偉そうに陣取って、陽射は容赦なく俺に降り注いだ。でも俺の身体は、何の熱も感じなかった。
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