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兼業主夫のシンキングタイム

リビングにオーディオはないので、スマホにスピーカーを繋いで聴く。ROLAND のジャズコはとてもよく鳴る。

昨夜、正業のほうの納品が終わり無事請求書も提出できた。今日、このところ進めていた、自著をkindleへ配信する手続きがおおむね終わった。POD(紙の本)化もしたので、タフな作業だった。

わたしには妻子がいて、娘は2才になる。朝6時に起きて、妻と娘を送り出すところからわたしの一日が始まる。妻は会社員としてフルタイムの仕事をしており、娘は保育園に向かう。わたしは個人事業主で家で仕事をしている。WEBデザインがメインで、ディレクタに回ったり、DTPをしたり、翻訳をしたり、ワイヤーフレームを書く流れでライティングを引き受けたりもする。

わたしが家にいるので、日中の家事はわたしの役割である。食器洗いもそのひとつで、だいたい、昼食後、朝の分と合わせて、洗い物をする。

わたしは音楽を聴きながら、ひとり食器を洗う時間をシンキングタイムと呼んでいる。sinkでthinkingという古典的なダジャレだ。

今日も昼食をとり、嬢王蜂の『燃える海』と『鉄壁』を聴きながらアンパンマンやらミッフィーやらの食器を洗っていた。apple musicのはじめての嬢王蜂というプレイリストをかけていた。

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執筆でもデザインでも、感傷的になることはあまりないのだが、マリア・カラスがデジタルサウンドを使うとこんな感じになるんだろうなと思える、嬢王蜂の楽曲でもスケールの大きな上記の曲を聴いていると、食器を洗いながら、長い長い執筆の時間に思いを巡らせて、少しぐっときてしまった。

そもそも小説を書く能力の問題なのかもしれないが、400枚も500枚を書いて、数人の登場人物のキャラクター以外全面的に書き直したりを繰り返して、延々、終わらないんじゃないだろうか少し気がふれそうになりながら、このほどやっと校了した。数えたら1,200枚ほど書いていて、最終的に400枚が残った。データのタイムスタンプを見ると10年弱が経過していた。校了したわけではなく、校了を決めたのだ。

数年前のハヤカワ・SFコンテストに応募したが落選した。賞を獲っていればそれで済んだ話である。落選でいったん結果を出されているわけで、にもかかわらず、誰が期待するわけでもないのに、いい歳をした大人が苦
行のような執筆を続けていることに、しばしば羞恥心を覚える。才能という密度満点の塊的何かを目の前に突き付けられながら、キーボードを叩き続けるわけである。

小説を書き始めた、二十歳くらいの頃は、小説を通して自分を理解して欲しかったのだと思う。わかって欲しいわかって欲しいが強すぎて、かなりしんどい筆致だった。

今、四十路を過ぎて、なんで書いているのだろうと考えると、ひとつは成功していないからだと思う。しかし今は小説で自分を理解して欲しいという欲求はそれほどない。物語の着想があって、書き始めたら、それは完結するしかないとどこかで思い込んでいる節はある。パラノイアに近いかもしれない。

先日POD(紙の本)のサンプルが家に届いた。ジャケット・デザインには満足はしている。実際の紙の本なので、手に取ったとき読者にどう見えるのかという視点でデザインをしている。amazonで表示されるサムネイルのデザインとして正解かと考えると、いろいろ悩ましい問題もあるのだが……。

ひとりでやるより、分業したほうがクオリティがあがることは分かっている。でも長編小説の電子化やPOD化を外注すると、何十万もかかってしまう。予算の問題で全部ひとりでやるわけだが、執筆、編集、校正、組版、epub化、コピーライティング、装丁デザイン、配信手続きのすべてを自分でやったものが手元に現れると、これは他では味わえない感慨を覚える。

自分の美意識や哲学が隅々までひたひたに行き届いた作品。1, 2週間で粗が見えはじめてまた煩悶を繰り返すわけだが、今は自分の小説と短いハネムーン期である。

amazonの販売URLが決まれば、noteでもマガジンを制作して配信しようと思います。ここだけ丁寧語になり、非常に性格の悪いやつだなと自分でも思いますが、読んでいいただけると幸甚です。

以下は、シンキングタイムでぐっときてしまった嬢王蜂の『鉄壁』です。


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