ぼっちだった高3秋の自己分析日記

スマホに残っていたメモを検索していたら、
たまたま、高校3年生の10月の日記が出てきた。

クラスに馴染めず受験勉強もうまく行っていない僕は、絶賛悩みの渦中にいるはずだが、
自分なりに3年間を振り返って色々と悟ったようで、達観したことを書いていた。
もうこの当時から何年も経って、もうほとんど他人事みたいな感覚になってて、当時のような熱量で文章が書けない。
まあだからこそこうして文章書いてnoteに投稿できるようになったんだろうけど。

クラスで一言も話さないやつが、一体どんなことを考えてたのか、というのがリアルに分かる文章だな、と思う。
長いけど一気に載せる。

スタバで「花咲くいろは」のオープニング見てたら、またアニメ見たいなぁとか思って、あの一日中アニメ一気見の自堕落な生活を思い出した。
で、今はまあ受験について考えることが多いし、学校でぼっちで周りを気にしたり、いちいち傷ついたり、自分のアイデンティティについて考えたりしちゃうんだけど、これ、ずっとこういうわけじゃないんだよなあ。ずっと続いてくような錯覚がするけど、違うんだよなぁ。

大学行ったらどんな感じで暮らすんだろう?
今ぼんやりと、〇〇大へ行って、多分今みたいな感じでぼっちで、まあそれなりに興味があるけどわりと難しい講義を受けて、バイトして、マックやスタバでレポートとか勉強とかして、家帰ってからゲームしたりパソコンしたりアニメ見たりすんのかなー とか、今とあんまり変わらない暮らしをしてんのかなとか思ってた。でも、きっと違うんだ。

きっとずっと安定してるわけじゃなくて、途中で絶対アニメを一気見して1日をダラダラ潰すことが何日も続いて、大学にも行かずちょっと引きこもりみたいになったりすんだろなーとか思った。 多分、コンスタントに大学通えないんだろうな。 引きこもって単位落としたりすんだろな。

きっと大学在学中に、〇〇(実家の愛犬)は死んじゃうから、それ聞いて鬱になったり、もしかしたら爺ちゃんばあちゃんが死んで生活が一変しちゃうかもしれない。だから、絶対どこかで、鬱になってなにもかもストップしてしまう時がくるんだろうな、と思った。

だから、今の価値観で見る世界はきっと今だけで、大学入ればまた全然違うものになっちゃうんだろな。
今、学校で色々悩んで、周りを気にしないようになりたい、ぼっちを病まずに自分なりに良い感じの人間になりたい、みたいな鬱屈な感情が色々入り混じりながら時々パンクして休みながら通う毎日が、きっとずっと続くわけじゃないんだろうな。
今自分の中を占めてる、学校のことや受験なんかは、大学に行けばぽっかり抜け落ちて、他の何かが心を占めるようになるんだろうな。それは中学でも高校の1、2年のときもそうだったから、きっとそうなんだろう。

中学の時は何が占めてたっけ?… 卓球のコンプレックス、不良、自分の立ち位置(キョロ充)、リア充になりたい、みたいな感じじゃなかったか。

高校一年は、リア充になりたい、もっとこう、偉そうに自分勝手に行きたい、周りをコントロールしたい、みたいな欲だっけ。でも、クラスに溶け込めない、認められない、それに苛立ちを覚えてた。スクールカースト最下層に居る自分が許せなかった。 人間関係について悩みだした。だんだんコミュニケーションに自信を失っていった。 周りがみんな楽しんでるのに、自分だけ取り残されていくことへの焦り。 勉強ができなくなり、アイデンティティを失った。部活も主に人間関係のせいで楽しめず、不完全燃焼の日々。なんとか立て直したくて、朝練したり自炊したり早起きしたり色々試したが続かず。
2学期では完全に負のスパイラルに陥り、学校に行くことはもはや苦痛、勉強も思ったようにうまくいかず、人より進んでる、できるということを保ちたいにもかかわらずやる気がでなかったり、自分をうまくコントロールすることができなかった。
ネットのチャットにハマったり、無闇にテスト前に徹夜したり、それでテスト遅刻したり赤点も幾つか取った。
冬には自分のうまくいかないことは鬱のせいだ、ということを考えだした。
高校では中学をぶっちぎるんだ、もっとキラキラした存在になって、中学の時に悩まされてたちっちゃいもんなんて吹き飛ばして、上からケラケラ本当に気の合うやつらと一緒に笑ってやるんだ、勉強も部活も全部うまくやって、楽しい高校生活を送るんだ、と思っていた。
理想は頭の中にいつもあって、でもいつも現実はそれを裏切って、なんで?なんで?と混乱する日々。 目の前でめまぐるしくいつも派手なものに目を惹かれて、あっちに行ったりこっちに行ったりして、ずっと走ってるのに、全然幸せになれない。リア充になれない。ずっとカースト最下層のまま、日々が続いてく。いつか、一発逆転のときが来るのを信じて通って、その度に裏切られてきた。
理想と違いすぎて、あらゆることに悩んでた。何もかもが自分に牙をむいてくような気がしてた。多分、少しでもうまくいかないとダメだったんだろう。感受性が強すぎたのかもしれない。

高校2年。
うまくいかないことが続きすぎて、慣れてきて、うまくいかない状態を1秒でも続けたくなくてなんとかしなきゃと焦らずに、うまくいかないことを一旦認めて、考え出した。
このときから意識的にぼっちになったりと、事実上の敗北宣言だ。入学時に思い描いていた理想との決別だった。 いちいち悩むのはずっと続いていて、勉強のやる気が出ずテスト結果が悪いことがその悩みの筆頭で、なんとかしなきゃと焦っていた。
で、大体2学期ごろの日記を見てみると、大体今の感じになってるなあという感じだ。
もはや学校で優位に立ちたい、こんな自分を認めたくない、みたいなことは考えず、勉強のやる気をどうやって出すか、どうすれば毎日辛く思わなくなるのか、みたいな、根本的な問題解決は諦めて、どう誤魔化していこうか、みたいな発想に転換していった。
これは今でもそうだ。

これが良いのか悪いのかはわからん。
一年のあのいつでも燃えるように苦しい、理想に手が届かないことの絶望、と、今の大体鬱、めんどい、でもまあなんとか耐えれる、だましだまし行こう、みたいな生活。どっちも違う意味で苦しい。一年の時に、ここで諦めちゃいけない、超えちゃいけない一線、プライド、みたいなのを、一年はずっとギリギリ走ってきた。2年になれば変わる、と信じて。リア充になって、一気に逆転するんだと。そして、2年になり2カ月が経ち、自分が更にぼっちになったということを悟った時、やっと諦めて、その一線を越えてしまったのだ。もう、理想を追い求めるのは止めよう、今の現実でできるだけうまく生きよう、と思い始めたんだと思う。

一年の時の自分も、悪くはないんだ。ただ、本当に苦しかったなあとも思う。
いつでも、今の現状を変えるためのアイディアをグルグルグルグル考えて、早く生活を変えたくて、明日早く起きてみようとか、これを試してみようとか、自分のクラスの立ち位置だったり考えたり、優位に立つための戦略だったり、勉強でも授業中で全部理解して覚えられるようにしたり、予習復習毎日やって勉強に関して自信をつけたかったり、とにかく今の現状を変えるために走り続けた。

今は、超マイペースで生きすぎて、もはや友達ってなんなのかもわからなくなってる。
けど、あの時は、友達に合わせて、とにかくテンション上げて、うまく気に入られれば、色々と便利だし、みたいなことを考えて、その度に傷ついたりもしたけど、結構楽しかったんじゃないかと。
なんだか、戻る気はないけど、やはり悪くはなかったんじゃないかと思った。今は人と関わるのは面倒、非効率、自信喪失の種、みたいなことしか思わないけど、あの時は多少のリスクを顧みず、それでも友達っていうキラキラしたもんを手に入れたくて躍起になってた気がする。もう理解できない。

今は驚くほど散々悩まされた自分の声は聞こえない。もうお亡くなりになられたのだろうか。ちょっと寂しい。
何をするにも自分を急かしてきた声は、もう今は聞こえず、すごく心が空虚。
大体めんどくせえなあ、とか考えるようにしかならなくなった。ああ、あのキラキラした俺は死んだんだなあ。

人と話す時とか、前みたいに気に入られるようによいしょしたりしないし、なんか意図があってはなしたりしないから、びっくりするほど話すことがない。会話が弾まなくてびっくりする。まあ、そういう目でみなくなったらそうなるんだろうな、とか、自分ってそういう目がないとこんなにも他人に興味もないし会話のレベルも低い空っぽの人間なのかな、とか思ったり。

マジで逸脱しちゃったなあ。もう、媚びるとか友達に入れてとかいう気持ちが湧かないもん。そういうのを排除したい気すらして、そしたら話すことがなくなっちゃったり。完全に価値観が変わった。前までの、人に認められたいから媚びる、フレンドリーにして、仲間に入れてもらう、という絶対的な大前提がなくなって、話しかけられたらなんとか返す、みたいな感じになってきた。
あーー、なるほどな。コミュ障とかなんとか言われるけどそういうことか。結局、やる気、意図の問題なんだな。何かしらのエネルギーがあれば、パフォーマンスも上がる、みたいな。それが善であれ悪であれ。とにかく伝えたい、みたいな気持ちがあればいいってことだ。なるほどなぁ。 今おれ、なんもないもんなぁ。だから会話が成り立たないんだな。みんな、気に入られたい、嫌われたくない、が前提にある会話なのに、俺だけそういうルールに則って話さなかったら、そりゃ成り立たないわな。なるほど。

勉強に対して、「他人より優位に立ちたい」「自分ができる人間だと確認したい」みたいなエネルギーが、結構強かったから、それでパフォーマンスも良かった。
人間関係も、「気に入られたい」「有用な人間だと思わせたい」みたいなエネルギーが強かったから、パフォーマンスも良かった。

で、高校でそのエネルギー変換を余儀なくされて、色々考えて、今がある。勉強に関しては、優位に立とうという気持ちはほぼなくなって、純粋に勉強を楽しもうと思えるようになってきだした。
人間関係はまだわからない。とにかくマイペースを保ちつつ円滑にコミュニケーションを取りたいのに、マイペースのままだとどうしても、相手が言ったことに正確に返そうとするだけになる。ちゃんと話は聞くんだけど、「だからなに?」という話ばかりで、どう返せばいいかわからない。前までは相手に気に入られる返しがベターだったのに、今はそういう柱がないから、自分の思ったことを言うしかない。だから会話がなんとなくばらついてしまう。だいたい、「ふーん、そうなのか」で終わってしまう。

もやもやしたので、姉に話してみた。
やっぱり俺は、普通の考え方からは逸脱している感じはした。
姉ちゃんは、会話は自分のためのものじゃないし、面白いかどうかは聞いてみないとわからないし、表情とかもあって、相槌とか興味を持つ、とか、なんというか相手のことを考えたことを言ってた。俺は自己中なことしか考えてなかった。相手が有用な情報をくれないとか、そういうことを。
でも、俺はそういう、会話を成り立たせるためのコツを知りたいわけじゃなくて、なんでこんな会話について感覚がおかしくなってしまったのか、みたいなことを知りたかったわけで。でも聴き方が悪かったな。うん。結局もやもやしたまま帰った。

まあ、俺がぼっちの原因はだいたいわかってきた。

気に入られたいという執着がなくなる→伝えたいという気持ちがなくなる→表情は無くなるし会話のアイディアがなくなる→相手へ与える印象も悪くなり、会話のテンポも悪くなる→会話が続かなくなる→話しかけられなくなる

なるほどわかりやすい。
これはぼっちにもなりますわ。

つまり言えることは、何かしらエネルギーがないとダメってことだ。
でもそのエネルギーがあんま良くないエネルギーだった俺はそれを捨てた。するとエネルギーが無くなって一時的にうまくいかなくなった。

とすると、良いエネルギーを取り入れるべきなんだな。純粋に相手のためにも会話を続けてみるとか、そういうことを。なるほど。よくわかった。

まあ、良かったのかもなぁ… そういう「気に入られるだけ」の会話をするのを捨てたのは。早かれ遅かれ、歪みが起こるから、いつかちゃんと良いやり方を学ぶべきだったということなんだろうな。
人間関係も、勉強も… 全部、きっと少し、間違った考え方をしてたんだ。けど、それで上手くいってたように見えたから、そのままいたら、大事故起こしてしまったんだろうな。だから今は転換期なんだろと、そう思おう。
純粋に自分と向き合って、本物を見つけて、「大いなる計画」を実行しよう。

嗚呼…せっかく11時に帰ってきたのに、いやまあ予想はついてたけど、2時間以上悩んでスマホ弄ってるわ。こういう日もあるってわかってるけどさ。 寝れないのは辛いよ。

大事なことを忘れてたな…
焦っちゃだめだ。
大丈夫だ。
これは最悪じゃない。ちゃんと戦えてる。途中で投げ出す必要はない。ちゃんと進めてる。自分のペースで大丈夫だ。

以上、ぼっちの自己分析を全文載せた。
一日中ほとんど話さない日が何ヶ月も続くと、人は頭の中でめまぐるしく会話して、それを何かに出力しないと気が済まなくなる。
まさに、この当時の自分はそうだった。
今は、時折ネガティブな思考に支配はされても、当時のように脳内会話が止まらないとかは無い。
思春期のモヤモヤとイライラは厄介だ。
今はその感覚すらうまく思い出せなくて、当時の自分に申し訳ない。

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