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姉小路暗殺(歴史小説)~幕末最大のミステリー

朔平門外の変は、文久三年(1863年)五月、即時攘夷派の公卿である姉小路公知が暗殺された事件です。今もって犯人は特定されず、幕末最大のミステリーとして語り継がれています。本稿は、この事件を天誅組騒乱の遠因の一つとして位置付けた私の仮説を、小説にしたものです。


文久三年五月。京、錦小路の薩摩藩邸。

益満休之助ますみつきゅうのすけは庭に面した廊下に座っていた。

庭には、浪士風の男が一人。片膝をついて座っている。

高殿こうでん、仕事だ」

「はい」

姉小路公知あねがこうじきんさと公が、先般、大坂湾で幕府海軍の巡視をされた。いたくご機嫌で、海軍のさらなる充実がわが国には必要と騒いでおられそうだ。大坂では、攘夷から開国に変節されたとも噂されている。これを、流言として、京の浪士達にも放てということだ」

黒船来航から十年。今、京の政局は、即時攘夷を求める強硬派の公卿、姉小路公知、三条実美さんじょうさねとみを擁する長州藩が握っている。

長州藩は、昨年、公武合体から方針を転換し、幕府に即時攘夷を迫って圧力をかけている。

上洛した将軍家茂と一橋慶喜は、攘夷祈願の行幸に引きずりだされ滞京を強いられてきた。先月、ようやく一橋慶喜が鎖港談判のため、江戸へ戻ることを許された。

しかし、幕府は攘夷開始日を五月十日と約束させられた。

京は嵐の前の静けさのような、穏やかな風が吹いている。そして、天誅が横行している。姉小路についてのよからぬ噂を放つということは・・・。姉小路の生死に直結する。

高殿は、事の大きさに軽い衝撃を受けた。

「余計なことながら、このお話は藩の上のほうから」

「確かに余計なことだな。もちろん上のほうからだ。だが、今回はちょっと違う」

「というと」

「実は、伊牟田さんが京へ戻っている」

「喜界が島に流刑になったのでは」

「京はこんな状況だ。上では裏を仕切れるものを必要としている。ひそかに、伊牟田さんを島から抜けさせて、京へ入れたようだ」

伊牟田尚平いむたしょうへいは昨年、島津久光の上洛に先立ち、黒田公に挙兵の協力を求めるなど、独断の動きをした。もとより久光に挙兵の意図はない。伊牟田は、罰を受けた。

しかし、今、京は天誅が横行し、謀略のるつぼとなっている。藩は伊牟田の力を欲したのだ。伊牟田は、若い頃から藩外で活動し、世情に通じ顔も広い。裏仕事を任せるにはうってつけの男だった。

伊牟田が現れた。益満の横に座る。

南国での流人生活にもかかわらず、やつれるどころか日に焼けて、むしろ精悍に見える。

「高殿。ひさしぶりだな」

相変わらず、尊大で傲岸な態度だ。

「姉小路の変節は好都合だ。浪士を焚きつけて、姉小路を斬らせることができればよいのだが」

薩摩としては姉小路を討たせて、長州の勢力をそぎたい。

「土佐の連中はどうだ」

「土州の武市半平太は姉小路の盟友とも言われています。そこは簡単ではないでしょう」

「土州もいろいろだろう。武市から距離をおいている奴らはいないか」

「であれば吉村虎太郎でしょう。ある意味一匹狼ですが、慕って集まっている取り巻きもいます」

伊牟田は益満を見た。益満もうなずいている。

「そうか。そいつは腕はたつのか」

高殿は少し考えて、

「土佐では庄屋だったと聞きます。それほどではないかもしれません」

「取り巻きに腕のたつやつはいないのか」

「取り巻きではありませんが、例の藩邸にいるあの男はどうでしょう。吉村とも近いのではないかと」

「那須か」

伊牟田は笑顔でうなずいた。

那須信吾なすしんご。土佐の参政吉田東洋を暗殺した男だ。

暗殺後、土佐を脱藩し上京。薩摩藩邸にかくまわれている。

刺客として、これ以上の人材はいない。

「よし、それでいこう。すぐ動け」

 

益満は、高殿とともに藩邸の長屋に行き、浪士を集めた。

このような時のために、藩邸では長州や、土州の息のかかっていない浪士をかこっている。畿内や北陸、山陰の浪士が多い。姉小路変節の情報を伝え、土州をはじめとする京の浪士たちに流言として広げるよう指示した。

吉村への工作は、高殿があたることになった。

 

高殿こうでん。南大和の寺の出で、元は当山派とうざんはの修験者である。二年前から京で薩摩の裏仕事にたずさわっている。

要人警護などの際には修験者の姿だが、京での工作時は浪人姿をしている。総髪の髪をぞんざいに束ねて髷を結っている。

大和浪人と称し、長州系、土州系の浪士達にも少しずつ顔を売っていた。

吉村とも何度か面識がある。木屋町三条の吉村の寓居を訪れた。

吉村虎太郎、二十七歳。歳の割には落ち着いた大人の風格のある男だった。

若くして庄屋を継ぎ、村の経営に携わった経験があるからだろう。

もともと実家が裕福であることもあり金回りも良い。それを目当てに同藩、他藩を問わず浪人が周りに集まる。

勢力のある浪人の頭として、大藩が目をつけ、折に触れて金が配られる。というような循環がある。

高殿も薩摩からの金を渡したこともある。長州からももらっているようだ。

また、母藩の武市半平太とも連携している。そこからも、なにがしかの金がまわっているに違いない。

但し、吉村本人としては、それをなんとも考えてはいない。金をもらったからといって何か恩義に感じて、自分の行動に制約を加えるつもりもない。我が道を行くのだと。

そういう態度に、高殿は相応の敬意を吉村にはらっていた。

遠まわしに姉小路の話を振ると、吉村は意外なところからくいついてきた。

「ミカドは、姉小路をどのように見ているのだろう」

「私が聞いている範囲では、全面的に信頼しているわけではないのではないかと」

先月、石清水行幸があった。ミカドが参拝されたが、体調も悪く及び腰だったのを、姉小路ら過激派公卿が強行したと聞いている。

対幕府では力強い存在ながら、ミカドすなわち孝明天皇がもろ手を挙げて、三条実美や姉小路を支持しているようでも無い。そのように、中川宮あたりからは漏れ聞こえていると、伊牟田や益満はいっている。

「そこへ、今回の開国派への変節」

高殿は焚きつけてみた。孝明天皇は、がちがちの攘夷主義者だ。

「世の中の声が、それを支持するのであれば、私としても立つことに異存はない」

浪人にとって天誅は一つの政治活動だ。自らの求心力を高めることになるのであればやらないこともないといっているようだ。

「土佐もどうなるのかわからない」

武市半平太の片腕ともいえる平井収二郎が先般土佐で収監されている。武市も帰国を余儀なくされている。山内容堂は、少しずつ土佐勤王党の包囲網を狭めている。

「私としては、どちらでもよい。もとより土佐を捨てた身」

一藩勤王を唱える武市とは一線を画している。

「姉小路を失えば、長州も困るだろう。しかし、私はそれにもあまり興味は無い」

「というと」

「昨年の春、寺田屋事件のころから考えている。私は、草莽の決起が重要だと考えている。我ら脱藩浪人が討幕の旗を揚げる。楠正成のように討幕の契機となるのだ」

「成算はあるのですか」

「勝てるかどうかは二の次だ。我々が立ち上がることにより「討幕」を現実のものとする。そうすれば、次に続くものも出るだろう」

「いつ、それを実行するのです」

「出来るだけ早く。そのための準備を始めているところだ」

「姉小路の件は」

「考えておこう。どこでどうやるについては、何か考えがあるのか」

具体的なことを聞いてきた。

姉小路の御所からの退庁経路など、調べておいた内容を説明した。

「斬り込みには、腕の立つ剣客が必要です。心当たりがありますか」

吉村は、意外な男の名前を口に出した。

「田中新兵衛とは懇意にしているが」

田中は薩摩藩士だ。しかし、藩から離れて志士活動をしている。土佐の連中とつるんで、何度も天誅に加担し「人斬り新兵衛」といわれている。

吉村は、高殿が薩摩の一味とうすうす気が付いている。その上での発言かもしれなかった。しかし、田中が暗殺に参加すれば、薩摩が嫌疑を受ける。それは、絶対に避ける必要がある。

はぐらかして、那須の名前を出した。

「うむ。那須さんが賛同してくれるなら鬼に金棒だ」

那須と話してみると吉村はいった。

 

姉小路変節の流言は、京の浪人たちに広まった。

姉小路が軍艦製造や製鉄所の建設を献言したことで、それはさらに広まった。

いくつかの集団が、具体的に姉小路の天誅の計画を始めたとの風評も出てきた。

一方で幕府が定めた攘夷開始日、五月十日が到来した。

姉小路を護るべき長州人の主だったものたちは国元に戻り、馬関で外国船の砲撃を開始した。

頃は良しと、高殿こうでんは吉村の家に向かった。

「姉小路か。あの話は無しだ」

吉村はいった。

「那須さんが、応じなかったのですか」

「いや、那須さんは賛同してくれた。しかし」

「しかし」

「昨日、武市さんから文が届いた。姉小路卿についてとかくの噂があるようだが、絶対にいかんと釘をさされた」

武市半平太は姉小路と懇意にしている。

姉小路は長州系公卿と言われているが、武市にとっても重要な手駒だった。

昨年、姉小路が江戸へ下った際には、武市は従者として同行した。

武市は土佐に帰国しているが、姉小路変節の噂が耳に入ったのだろう。武市は配下の岡田以蔵おかだいぞうらの暗殺団や吉村らに手紙を送って、間違ってもそのような企てに加担してはいかんと申し渡した。

山内容堂は、武市を陥れようと画策している。下手に土佐の者が動けば、それを口実にされるかもしれないと気に病んでいるのかもしれない。

「別に武市さんのいう事を聞く義理は無い。だが、このまま姉小路を暗殺っても、ただの暗殺になってしまう。それでは意味がない」

誰もが期待するものでないとやる意味はない。吉村はそういった。

高殿は失望した。

 

「この、天保銭てんぽうせん

伊牟田は、高殿を罵った。吉村が動かないと報告した時だ。伊牟田は使いものにならない者を天保銭という。

最初は意味不明であった。益満に聞いてみると、薩摩では天保銭の贋金を大量に造っているという。

天保銭は、粗悪な通貨で、それまで通用していた通貨の五分の一程度の価値しかない。薩摩はそこに目をつけて贋金をつくっている。そのせいか、天保銭の価値はどんどん下がっている。要は「使えない」ということだと、益満はいった。

吉村以外の暗殺団の動きも活発では無い。伊牟田は他の策を考えろといった。

 

たそがれどき、木屋町の高瀬川のそばで、声をかけられた。

「高殿さん」

振り向くと、浪人姿の男がいた。

髪は総髪だがきちんと髷を結い、服装も地味ながら隙のない装いをしていた。

「私です、乾山けんざんです」

乾山は本山派の修験者だ。高殿と同様、間諜をしている。

但し、会津藩の間諜だ。

しのぎを削っている間柄だが、同じ修験者として、顔見知りでもある。

「吉村さんは、あの話、断念されたようですね」

「ふん。何の話だ」

「高殿さん。その件はね、薩摩と会津それから中川宮なかがわのみやで、共同で進めている話だったんですよ」

「なんだと」

またかと高殿は思った。

いつもこうだ。薩摩藩は秘密主義で、なかなか、工作の真意を下にはおろさない。結局、自分は手足としてしか扱われていない。

「対長州の連合か」

「そうです」

今、京の政局は長州が独走している。薩摩と会津は連携してそれを抑えようとしている。そこに、ミカドの側近の中川宮が一枚かんでいるということのようだ。

「ちくしょう。なんで、それをお前に聞かないといかんのだ」

乾山は笑みをうかべ、まあ、今回はおんなじ側でもありますしと、

「一杯やりましょう」

二人で飲むことになった。

いつものことだが、呉越同舟。一言話すことごとに慎重に言葉を選んだ飲みとなる。

だが、高殿はこれが嫌いではない。

酒も好きだが、手練てだれの間諜同士、緊張感のあるやり取りに刺激を感じる。

乾山もこれを楽しんでいるようだ。乾山は本山派ほんざんは聖護院しょうごいんの修験者で、修験者としても出来物として知られている男だ。

同い年の二十七歳。こいつには負けられないとの対抗心が、高殿にはひそかにある。

あたりさわりのない噂話から始まって、徐々に、お互いの懐の探り合いになる。

正直、下っ端同士と割り切って情報交換すれば良いものを、互いに意地があって張り合っている。

高殿が出すかどうか何度も考えていた名前を、乾山がさらりと口にした。

「田中新兵衛は、どうするんですか」

ここは、さりげなく、かわすにしくはない。

「田中は武市半平太と親しい。動くまい」

高殿は答えた。これは希望的観測だ。田中の暗殺への加担は、絶対に阻止する必要がある・・・。

それより、乾山が田中の名前を出してきた意図はなんだ。会津は田中をそそのかそうとしているのか。いや、であれば黙っていれば良いものを・・・。

「田中は駄目みたいですよ。なんか、落ち込んで、心の病のようです」

「えっ」

「ご存知なかったですか」

すぐには信じられなかった。豪胆で、単純な男だと思っていた。

確認しておく必要があるなと、高殿は思った。

 

数日後。中川宮邸の庭に、乾山は座っていた。

修験者の山伏装束をしている。

乾山は会津藩公用方外島機兵衛の下で働いている。が、実は、この春から外島に中川宮の指図を受けるよう指示されている。

「動かんか。浪士は」

「はっ。土州の吉村虎太郎らが動きはじめていたのですが、武市半平太が止めたようです」

「武市は、土佐にいるんやろ」

「山内容堂公は土佐勤王党を抑えようと、機会をうかがっているようです。武市としては足をすくわれないように、京の仲間に手紙を送って制止したようです」

「何とか、浪士を動かす方法はないんかな」

「姉小路の変節といっても、うわさ話ですし。これだけでは・・・」

薩摩が新たに情報工作を行っているという話が入っている。幕府老中の小笠原長行が兵を率いて上洛しようとしている。これは事実である。流言として流しているのは、「小笠原は姉小路の親戚筋にあたる。上洛の上、姉小路を通じて朝廷に食い込み、京の尊王攘夷派を一掃する陰謀がある」という噂だ。

根も葉もない。高殿はあらためてこの工作を進めているようだが、効果はなさそうだ。

「それは難しそうやな・・・。けど、正直なところ、ミカドは姉小路や三条を退けたいと思っている。これは本当や」

姉小路公知や三条実美や長州藩とつるんで、勅諚ちょくじょうをいわばでっちあげて朝政を壟断ろうだんしている。中川宮や薩摩はそれに抵抗しているものの、現状、対抗できていない。

ミカドは本音のところ、公武合体の穏健な改革を求めている。攘夷も政治的というよりは生理的なもので、単に異質なものが受け入れにくいという程度の感覚である。

しかし、三条や姉小路らが強行に幕府に対応していることで、実質的に朝廷の地位はあがっている。むげに彼らを抑えられないのはそういう面があるからだ。

ただし、三条や姉小路の後ろ盾となる長州藩の過激派は攘夷実行のため国元に引き上げている。

今のうちになんとかできないものかと、中川宮はいった。

「おそれながら、勅命でもでれば・・・」

「密勅か。それは難しい・・・・。が、勅命みたいなもんはだせるかもしれんな」

「と言いますと」

「さっきもいったように、ミカドが姉小路や三条を除きたいと考えているんは事実や。それをそのまま、吉村につたえてみてはどうや」

「事実上の勅命」

「そうや。それから、吉村を動かすなにか餌のようなものはないんか」

「吉村は、いずれ自分が盟主となって討幕の義軍をあげたいようです。大藩を背景にせずとも立ち上がればついてくるものがあるだろうと」

草莽崛起そうもうくっきか。そう簡単にはいかんやろな」

「吉村は、最近でも南大和や和歌山あたりに行って、なにやら工作している様子もあります」

 南大和の十津川郷士が御所の警護をしたいと嘆願している。中川宮としては、藩の色のついていない彼らを朝廷のために使えないかとも考えている。しかし、それはまだ構想段階だ。

 五條の乾十郎いぬいじゅうろうという男が、吉野川の水を大和に流す構想を献策してきた。その構想自体は紀州藩との軋轢あつれきで成就していないが、その縁で、乾は中川邸に出入りするようになっている。南大和は中川宮の地盤とも言える地域となりつつあるのだ。

「いずれそういうことがあるのであれば、その際に私が支援すると、吉村に伝えてはどうか。私がといったが、その後ろにはミカドがおられると」

「それは、喜ぶでしょう」

「もう一つ。・・・田中新兵衛はどうだ」

「田中は、これまでの天誅を悔やんで、こころが病んでいるようです」

「もともと、直情径行な男なんだろう」

「おっしゃるとおりです」

「こっちも、勅命でどうだ」

人斬り新兵衛を見込んで、ミカドが助力を求めている。これで動く男だろうか。

「やってみましょう」

「薩摩にさとられんようにな」

姉小路と三条を暗殺して長州の力をそぐ。それだけでは薩摩を利するのみ。暗殺の嫌疑を薩摩に負わせて、薩摩の力も抑える。ミカドを中心に中川宮、会津藩で京の政局を安定させ、幕府にも圧力をかける。これが中川宮の策だ。

「では、それで動いてもらえるか。うまくいきそうであれば、うちの山田や伊丹から話をさせよう」

「はっ」

山田勘解由やまだかげゆ伊丹蔵人いたみくらんどは中川宮家の用人だ。浪士の信用を得るため、最後は彼らに出てもらう必要がある。

 

高殿こうでんは再び吉村の寓居に向かっていた。

老中小笠原に関する流言は、伊牟田が思いついたものだ。「無理だろう」とおもいつつも、地道に噂を広めていた。まず、誰も動くまい。

ところが、吉村虎太郎に動きありとの情報が入った。

それを確かめる必要がある。

吉村はいった。

「聞いている。小笠原の件だろう。たしかに捨て置けんな」

「で、・・・」

暗殺ろうとおもう。そのために準備をはじめたところだ」

高殿は、なにか釈然としなかった。自分がすすめた工作が前に進み始めたにもかかわらず。

「姉小路を、ですよね」

「そうだ。那須さんも賛同してくれた」

田中新兵衛には声をかけていないのだろうかと、思っていると

「実は、もう一人、剣客が欲しいと思っている」

「何故です」

公卿一人斬るのに、それほど人数はいらないだろう。

「姉小路は最近太刀持ちを雇ったそうだ。強いらしい」

聞いている。だが、那須がいれば大丈夫だろう。

「念のためだ。だが、その剣客にめぼしはついている」

田中か。やばいことになるかもしれん。と思っていると、吉村がいった。

「以蔵だ。岡田以蔵」

土佐の岡田以蔵。田中新兵衛と同様「人斬り」と呼ばれている。幾多の天誅に参加している。

「岡田以蔵は、武市さんの手下ではないですか」

「大丈夫だ。武市さんは土佐だ。それから、以蔵は金さえ出せばなんでもやる。そういう男だ」

その他、土佐浪士が数人で、姉小路を襲うという事だった。

御所からの帰路を襲う。準備をして襲撃し、戻ってから潜伏できる屋敷が欲しいという。それを高殿が用意することになった。

 

吉村のところで、田中新兵衛の話は出なかった。が、心配になったので、東洞院ひがしのとういん蛸薬師たこやくしの田中の寓居へ向かった。

田中は座敷に閉じこもっていた。雨戸を閉めて真っ暗な中、座っていた。

同宿の、薩摩藩士、仁礼源之丞にれげんのじょうに話を聞いた。

田中は、今年に入ってから、ふさぎ込むことが多くなったという。賀川肇かがわはじめの天誅の際、子供の前で首を刎ねたことを後悔していたとも言われている。しかし、きっかけはよくわからない。賀川の天誅に田中はかかわっていないという噂もある。ただ、田中は、今までの天誅を後悔しているらしい。

数日前から、部屋にこもるようになった。

仁礼によると、田中は「自ら殺した相手を洛中で見た」といったらしい。

「幽霊に追われたという」

「では、なぜ座敷に。隠れているのですか」

「今は、幽霊に会って、あやまろうと思っているようだ」

なので、部屋を暗くして待っているらしい。

座敷を覗くと、田中は正座して虚空をにらんでいた。頬はこけ、大きな眼だけが爛々と輝いていた。

狂っている。これは無理だ。

ちょうどいい。吉村もこんな状態で田中を誘うことはないだろう。高殿は思った。

 

吉村が高殿の用意した上京の屋敷にはいった。

明日、五月二十日に決行する。

吉村と那須を入れて、人数は六人。岡田以蔵はまだ来ていない。

少し多いなと高殿は思った。

姉小路が御所から退出する際の人数は、本人を入れて五人。

雑掌の中条右京ちゅうじょううきょう。太刀持ちの金輪勇かなわいさむ。この二人は、立ち向かってくるだろう。その他に靴持ちと従者の二人がいるが、おそらく、彼らは戦力外だ。

雑掌と太刀持ちに一人ずつ対応し、もう一人が姉小路を襲う。本来はこれで十分だろう。

七人いれば、もうひと組、暗殺団が組めるぐらいだ。

 

五月二十日、高殿こうでんが気になる風聞を聞いたのは夕刻だった。

勝鱗太郎かつりんたろうが上京している。勝は、姉小路が摂海巡視をしたときに案内をした軍艦奉行だ。

その勝の警護を岡田以蔵がやっているという。

土佐の坂本龍馬が勝に師事している。その関係で、坂本が岡田に警護を依頼したという。

開国派の勝の警護を行うなど怪しからんと、武市半平太が京にいたら激怒していただろう。

しかし、岡田はそんなことをやっている場合なのか。今夜、姉小路を襲うというのに。

高殿は、吉村があらためてこの企てに乗ってきたときの違和感を思い出した。

なにかがおかしい。

この企ては、そもそも薩摩、会津、中川宮の共同謀議だ。しかし、どこかで食い違いが出てきている。吉村が動いた背景には、それまで以上に大きな力が作用しているように感じられた。

それは、どこから来ているのか。

会津藩。いや、中川宮か。あるいはミカドか。

薩摩に隠してなにかを進めている意味は。

共同で長州に対抗しようとしている。しかし、そこに落とし穴があるのかもしれない。

思い至ったのは、田中新兵衛のことだ。

以蔵と思わせておいて、実際は田中を・・・。

田中の家に向かった。東洞院蛸薬師。

途中、伊牟田にすぐ来てほしいと知らせを送った。

 

田中は相変わらず、座敷にこもっていた。

但し、仁礼に聞くと、先日、中川宮家来山田勘解由が来訪し田中に会っているという。

「その後、何度か『勅命』とつぶやいていた」

伊牟田と益満が来て、田中に話を聞いた。

田中は、「俺はもうだめだ」といった。

「死に場所が欲しい。今夜、一刻だけここを抜けさせてほしい」

「なにをする」

伊牟田が聞いた。

「朝敵、姉小路公知を斬る。それ以上は言えない。俺は狂っていて、この座敷から出ていない。そうしておけば嫌疑を逃れることができる。戻ったら切腹する。薩摩には迷惑をかけない」

「馬鹿野郎。だまされているのがわからんのか。お前を参加させることで、薩摩を陥れる陰謀だ」

伊牟田が怒り狂った。

田中新兵衛は朗々と語った。

「姉小路公知も三条実美も、偽勅ぎちょくを出し朝政を壟断ろうだんする曲者。今宵こよい、勅命によりその二人を誅殺するのだ」

「まて、三条もやるのか」

伊牟田はうめいた。

やはり暗殺団を二組、組成するつもりだったのか。高殿は思った。

伊牟田がいう、

「ふん。まあいい、要はこいつをここから出さなければよい。そうすれば計画通りだ。中川宮め。薩摩をはめようとおもったようだがそうはさせない」

しかし、と高殿がいった、

「田中が行かなければ姉小路の暗殺に失敗するかもしれません」

「そこは、仕方がない」

伊牟田はいった。

「吉村に暗殺ってもらうしかない」

「三条公はどうします」益満がいう。

「難しいところです。長州の勢力をそぐにはよいのですが、幕府対諸藩という図式で考えたとき、幕府側が大きくなりすぎます。ここは止めておくのが順当では」

高殿がいった、

「おそらく、三条公への暗殺団は那須信吾が率いるのではないかと」

「益満、高殿とお前でそっちは止めるんだ。俺はこいつを見張っている」

伊牟田が命じた。

 

御所、朔平門さくへいもん外、猿が辻。御所のすぐ外の通りだ。しかし、日が暮れると通る者も絶え、寂しいところだ。

御所の築地塀がここだけ内側にへこんでいる。御所の鬼門にあたるためだ。軒下に猿の木像が鬼門除けとして祀られている。

吉村虎太郎は築地の陰で、田中新兵衛を待っていた。

白い鉢巻に覆面。たすき掛け。土佐浪士二人を連れているが、いずれも剣技未熟。人を斬ったことは無い。

それは、吉村も同じだ。

那須信吾は、三条実美を討つ暗殺団の指揮をとっている。こちらの姉小路暗殺の指揮者は吉村だが、戦力としては田中新兵衛に負うところが大きい。

しかし、約束の時間を過ぎても田中は現れなかった。

まずい、姉小路が御所を退庁して、ここを通ってしまうのではないか。その場合は、三人でやるしかない。

覚悟を決めかけたところに、男が一人現れた。

田中かと思ったが、中川宮の使いの修験者だった。確か、乾山けんざんという名前の。

「事故がありました。田中新兵衛は来ません」

「な、なぜだ」

「薩摩から、邪魔がはいりました」

「薩摩はこの企てを押しているのだろう」

「はい。ですが、自分の手を汚すようなことはしません」

このやろう。と、吉村は思った。

「代わりにこれを持ってきました」

修験者は一振りの刀を取り出した。

「田中の差料です。少し前にいただいておきました」

「現場に残せばいいのだな」

「おっしゃるとおりです」

それがミカドの意志なら、そうするしかない。俺たちはいずれ朝命を奉じ挙兵する。この事件はそれへの布石だ。姉小路を討ちとれるかどうか、やや不安だが仕方がない。やるしかないのだ。そして、尊皇倒幕のさきがけとなる。吉村はそう思った。

「少し離れて見届けさせていただきます。苦戦するようなら助太刀しますので、安心してください」

乾山の妙に落ち着いた声で、腹が座った。

「まかせておけ」

 

ほどなく、姉小路の一行が現れた。

吉村虎太郎が、二人の土佐浪士を引き連れ、刀をぬいて躍り出る。

姉小路の小者二人、靴持ちと従者が逃げ出した。

雑掌ざっしょうの中条右京らしい男が刀を抜いた。

太刀持ちらしい男は、しばらく固まっていたが、事態を理解すると刀を持ったまま逃げ出した。

吉村が姉小路に斬りつける、姉小路は扇でそれを受けたが扇はばらばらになって吹き飛んだ。

姉小路の顔面から血しぶきがあがる。しかし、斬撃は浅い。

そこへ中条が斬りつけてきた。

吉村も斬り返す。中条は見事な太刀筋でそれを跳ね返した。強い。

吉村は、刀を投げつけた。田中の刀だ。

中条は投げつけられた刀を自分の刀で払いのけた。しかし、自分の右足に刀があたり負傷したようだった。だが、吉村に向かってくる。吉村が逃げる。中条が追いついて、吉村に斬撃を加える。

独りになった姉小路を、浪士が二人がかりで斬りかかる。

姉小路が素手で浪士に立ち向かう。錯乱しているのかもしれない。

二人の浪士もあたふたしていて、なかなか斬り込めない。

浪士の一人がなんとか姉小路の頭に斬り込む。姉小路が棒立ちとなったところへ、もう一人が体ごとぶつかって、胸を突いた。

姉小路は倒れた。

中条が戻ってきて、浪士を追い払い、姉小路を助け起こす。

そして姉小路を担いで、屋敷に向かった。

 

姉小路は、頭と胸を斬られ、かなり出血もしていた。おそらく助からないだろう。

刺客の側も、吉村が脇腹を斬られたようだが、命に別状は無い。あとの二人は無傷だ。

現場の猿が辻には、田中新兵衛の刀が転がっている。

よし、完璧だ。乾山は思った。

 

益満と高殿は、那須信吾と二人の土佐浪士を見つけた。三条実美の帰邸の道筋を見て回り、築地のそばで隠れている彼らを発見した。

益満は那須を説得し、三条公暗殺を断念させた。

那須は、昨年吉田東洋を暗殺した後、二人の仲間と共に京の薩摩藩邸にかくまわれていた。薩摩の意志に公然と反することはできなかった。

 

「この天保銭」

伊牟田は高殿をののしった。

姉小路公知は自邸に担ぎ込まれたところで死んだ。

しかし、姉小路の暗殺現場に田中新兵衛の刀が落ちていた。それを聞いた時だ。

「出し抜かれやがって」

薩摩は姉小路暗殺の嫌疑をうけるだろう。

「しかし、中川宮には貸しを作った。勅命をひけらかして、公卿を暗殺するなど皇族のやることか。それから、仲間をよそおって裏で薩摩をはめるとは」

 但し、今後、「勅命」の件は中川宮を動かす大きな交渉材料に使えるはずだ。

五分五分だなと、高殿は思った。

乾山の野郎。やりやがったな。抜け目のねえ野郎だ。

 

「しぶといな。高殿は」

三条実美の暗殺が実行されなかったことを知って、乾山は思った。

完全にこちらに主導権があった。しかし、最後の最後に水をさされてしまった。

五分五分だなと。

 

現場に残された刀。これを証拠に田中新兵衛は捕縛された。

田中は奉行所での取り調べ時に自刃した。

証拠の刀を見せられた際、つきつけられた証拠の刀を使ったとも、差していた脇差を使ったともいわれている。

同宿の仁礼源之丞も同類と疑われ逮捕された。が、拘束されていた米沢藩邸から脱走したといわれている。仁礼は維新後、海軍大臣、さらには子爵となったが、この件については生涯、沈黙している。

事件は迷宮入りとなった。

 

薩摩は処罰を受けた。乾門の警備を免ぜられ、藩士が御所内に入ることも禁じられた。

しかし、なぜかそれは一月程度で解除されている。

京の政局は、その後、むしろ薩摩主導で展開される。

八月十八日の政変。薩摩、会津、中川宮によるクーデターが行われ、完全に長州を追い落とした。このとき、三条実美も京を追われ、長州に落ち延びた。

 

事件の真相は関係者とともに、闇に葬られる運命にあった。

吉村虎太郎は、姉小路公知の暗殺を聞くと、乞食を装って潜行し、犯人を捜したと伝えられる。しばらく身を隠していたのだと推察される。負傷をしたからであろう。

事件の二日後、吉村が勝麟太郎を訪れたとの記録もある。吉村が姉小路事件の関係者を訪ね、事件の調査をしていると偽装したのだろう。不在時を狙って替え玉が訪問し名刺を置いて去ったと思われる。

那須信吾は、現場に落ちていた刀をみて、田中新兵衛のものだと証言した。刀には、奥和泉守忠重と銘があり、「藤原」「鎮英」の二文字が彫られている。誰が見ても田中の物と自明であった。その認識のもと、証言することで自らの関与を否定する意図があったのだろう。

吉村と那須。二人は八月十八日の政変の前日、約四十人の浪士たちと大和五條の代官所を襲った。天誅組の変である。

大和行幸に先立ち、討幕の義軍を立ち上げ挙兵したのだ。

吉村はこの乱の最中、何度も勅命を奉じていると発言している。いずれは、勅命を奉じることになるとの確信があったのではないだろうか。

しかし、彼らの息の根を止めた天誅組追討の令旨りょうじ。十津川郷士宛てにそれを出したのは、ほかならぬ中川宮であった。

 

中川宮は、明治元年八月、突如広島に流罪となった。

岩倉具視の陰謀と言われているが、三条実美や薩摩が関係していないとは言い切れない。

後に復権し、伊勢神宮の祭主を勤めたが、政治の表舞台に戻ることはなかった。

 

伊牟田尚平は翌年、正式に罪を許され、京へ復帰。幕末まで薩摩の裏を仕切った。

慶応三年十二月、益満とともに江戸の薩摩屋敷を舞台に破壊工作を指揮して、幕府を鳥羽伏見の戦いに誘引した。

しかし、明治二年。些細な強盗事件の罪を負い、斬首となった。

誰が見ても不可解な死であった。

 

益満休之助は、慶応四年五月、横浜で死んでいる。

彰義隊討伐の際に銃弾を受け、それが破傷風を引き起こし死んだという。

流れ弾にあたったとされているが、それがどこから飛んできたかについては記録に無い。

 

高殿は伊牟田に呼ばれた。

「吉村たちが大和五條で挙兵する。いずれ、鎮圧されるだろう。そこはいい。ただ、総帥の中山忠光には逃げられたく無い。長州の重要な手駒だ。逃げそうになったら、始末する。それが任務だ」

「挙兵する浪士たちに潜入するということですね」

「そうだ、お前は吉村とも親しい。大丈夫だろう」

「わかりました。五條に向かいます」

知りすぎた。ということかもしれない。高殿は思った。

共同謀議とはいえ、薩摩は公卿の暗殺を謀った。それを知っている自分を、敵地に送るとは。死んでも構わない。むしろ、死んでくれれば都合がよいと。そう思っているのかも知れない。

「名前は、どうする」

変名を使えということか。

天保高殿てんぽうたかとにしましょう」

「天保銭の天保か。おまえらしいな」

たしかに。そう思った。

 

伊牟田は、修験者姿の別の男に指示を出していた。

明珍みょうちん。大和へ行って高殿のつなぎをやってくれ。ただし、高殿から目を離すな。逃げようとしたら斬るんだ」

 高殿は使える男だ。しかし、知りすぎた。危険を感じて逃げるかもしれない。

それを許容するわけにはいかない。伊牟田は思った。

明珍は大和に向かった。

 

乾山は、中川宮から指示をうけていた。

「挙兵する吉村らの動きを見張って欲しい。相応に勢力を延ばすようなことがあるようなら、逐一報告してほしい」

但し、挙兵が失敗し一党が逃亡するようなら、

「吉村と那須は生かしておくな。斬るのだ」

別途、会津藩外島機兵衛からも指示があった。

「壬生浪士組の土方副長から依頼がある。吉村の一味に間諜を入れるので、つなぎとして外から協力してほしいとのことだ」

乾山も大和へ向かうこととなった。

 

こうして、姉小路公知暗殺事件は天誅組の騒乱につながっていく。

そして、天誅組は約四十日間にわたり南大和で戦い続け、ついには壊滅する。

それは別の物語として語られることになる。

(姉小路暗殺 完)

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