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郊外のアンダーカレント、そのエッジへの遡行

1980年代前半の愛知の郊外に生まれた私にとって、戦後日本の都市周辺に急激な勢いで拡散して土地の記憶をフラットに塗りつぶした郊外は原風景であり、私なりの介入(歩行・リサーチ・絵画制作)によってその行く末の記録を残している。

私は相模野(現在の神奈川県中北部で相模川中流域の平野)という、相模原市東部市街地を丸ごと含む土地で個人的に10数年を過ごしており、2023年3月にはそこで個展を開催している。

その際には、

・でいらぼっち(巨人)伝説
・鶴川〜淵野辺〜上溝間の幻の鉄道線
・国道16号線
・軍都相模原
・アニメ、映画、文学などの「聖地」

などの相模野という日本有数の郊外を流れるいくつもの底流を題材とした。

相模湖は相模野という郊外のエッジである。
エッジとはバックヤードという意味であり、
相模湖は相模野の水道というインフラを支える施設のひとつである。
風景は紛れもない山間部ではあるがそこは郊外の一部であるともいえる。

他所で生まれ育ち、その後10数年にわたってほとんど無自覚にそのインフラの恩恵を受けてきた私ですら、
相模ダム建設の際に中国や朝鮮半島から連行され強制労働をさせられた人々や、ダム建設によって強制移住させられた湖底に沈んだ勝瀬部落をはじめとする住民たちとは決して無関係ではないということになる。

相模ダムは日本初の多目的ダムだ。相模湖はダムによって作られた人造湖である。
その相模ダム建設を含む「相模川河水統制事業」は1938年に神奈川県議会に提出された。
建前としてはダムによる発電で神奈川県下の電気料金を下げ工場を誘致し財政窮乏を救うというものや横浜市・川崎市への水道用水・工業用水の供給などだったが、その裏では日中戦争のための軍事兵器の製造工場建設のためという国家からの要請が存在した。

勝瀬や与瀬をはじめとする計画によってダムの底に沈む土地の住民たちは猛烈に反対したが、結局押し通され村は湖底に沈み、住民は1942〜43年に各地への移住を余儀なくされた。
現在の神奈川県海老名市勝瀬は最も多くの住民の移住先であり「勝瀬」の地名はその時付けられた。
そのため相模湖の歴史は「軍都相模原」の歴史と地続きであると言っても過言ではない。

相模野の水道水を逆方向に遡ると相模川を経て相模湖につながっており、
その湖畔にひっそりと鎮座している湖銘碑や慰霊碑、そしてかつて勝瀬部落の中心であった鳳勝寺跡の石碑などのアンカーに辿り着く。

私は今回の個展で原風景である愛知の郊外から相模野を経て相模湖へと至る、現在までの郊外への介入の記録を提示する。

【参考・引用】

秋山峰生・三宅公士『湖底の叫び』(日本中国友好協会神奈川県連合会、1989)

『相模川河水統制事業史』(神奈川県、1952)

神奈川県歴史教育者協議会『神奈川県の戦争遺跡』(大月書店、1996)

神奈川県高校地理部会『かながわの川(下巻)』(神奈川新聞社、1989)

相模原市教育委員会教育局生涯学習部博物館『相模原市史 現代通史編』(相模原市、2011)

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【個展】

『Suburban Undercurrent』
加藤真史

[日程]
2023 年5 月 20 日(土) - 6 月 4 日(日)

[場所]
神奈川県立相模湖交流センター

神奈川県相模原市緑区与瀬259-1

[時間]
10 時〜17 時
月曜日休廊

[アクセス]
JR 中央線・中央本線 相模湖駅から徒歩 10 分

https://sagamiko-kouryu.jp/event/917/

《Trace the Trace (Hashimoto) #2》
2020
パネル・紙・色鉛筆  colored pencil on paper, panel
162× 130.3 cm

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