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面白いことをするには、あまりにも人生は短すぎる。

余命宣告された生徒が「命をかけて」受けたいと願った伝説の講義。

どのような生き方をするべきか?

誰もがやがて死ぬことがわかっている以上、この問いについては慎重に考えなければなりません。

どんな目的を設定するか、どのようにその目的の達成を目指すか、念には念を入れて決めることです。

もし、死が本当に一巻の終わりならば、私たちは目を大きく見開いて、その事実に直面すべきでしょう。

自分が何者で、めいめいが与えられた「わずかな時間」をどう使っているかを意識しながら。

著者[Shelly Kagan/シェリー・ケーガン]
イェール大学教授。道徳哲学、規範倫理学の専門家として知られ、着任以来二十数年間開講されている「死」をテーマにしたイェール大学での講義は、常に指折りの人気コースとなっている。本書は、その講義をまとめたものであり、すでに中国、台湾、韓国など世界各国で翻訳出版され、25万部を超え
ベストセラーとなっている。


■「生と死の本質」とは?

死についての私の見方がどのようなものなのかを素早くつかんでもらうために、最初に、世間で言われている一般的な解釈を説明しよう。

まず私たちには魂がある。そして非物質的な魂が存在するのだから、この一般的な見方をたどっていけば、私たちは死後も生き続けられる可能性があることになる。

いや、その可能性が高いことになる。死は身体の消滅ではあっても、魂は非物質的なので、死後も存在し続けられる。

私たちには二つの主要な部分、すなわち物質的な身体と非物質的な魂がある。この見方は当然ながら「二元論」と呼ばれるものにはかならない。

それに対して物理主義者によれば、魂は存在せず、身体があるだけだという。もちろんこれは物理主義者が人に心があるのを否定するということではない。

なぜなら、様々な精神的活動、考えたり、感じたり、意思疎通したり、望んだり、記憶したりすることができのは、明白そのものだからだ。

もちろん,私たちはどこにでもあるような月並みな有形物ではな 人間とは、
とは驚くべき物体であり、人格を持った人間は他の物体にはできない、ありとあらゆる種類の機能を果たすことができるのだ。

その機能を本書では「P機能(人格機能)」と呼ぶ)。だがそれにもかかわらず、私たちは有形物にすぎない。事実上、ただの機械なのだ。

身体が存在することはすでに誰もが信じているのだから、私たちが問うべきなのは、魂が存在することも信じるべきなのか、となる。つまり、身体に加えて、非物質的な心もまた存在すると信じるに足る理由があるのか?

私の見る限り、それらを念入りに検討することにはたしかに価値がある(魂という概念はけっして馬鹿げたものではないし、軽はずみに退けるべきではないから)とはいえ、そうした主張は魂の存在を信じるのにふさわしい理由を提供することに成功していないのだ。

だから私は、物理主義の立場が最も妥当に思えると結論する。実際、人はP機能を果たせるただの身体にすぎないことを私たちは受け容れるべきだ。

人は自分の身体の死後も存在し続けるという、その考えはまったくもってお門違い、あるいはありえないということを、この結論が意味していると思うのは自然だろう。

なにしろ、もし人が特別な形で機能している特別な種類の身体にすぎないのなら、身体が死んだときにその人も消滅して当然ではないか?



■死はどうして、どんなふうに悪いのか

最初に考える疑問は、死はどうして、どんなふうに悪いのか、だ。なにしろ、ほとんどの人が「死は悪い(あるいは、少なくとも、もし死が本当に終わりだったなら、悪いだろう)」と心底信じていると、私は思っているから。

もちろん、人は死後も存在し続けると考えていたなら、死の悪い点が気になるのもよくわかる。

たとえば、魂の存在を信じていたなら、死んだ後、自分の魂がどうなるのかを心配するのも無理はない。

自分は天国に昇れるのか? それとも地獄に堕ちるのか? 死んだらどれほどひどい目に遭うのか、心配になるかもしれない。その手の疑問は、完全に理にかなっている。

ところが逆に、もし死が本当に一巻の終わりならば(そして、むろんこれこそまさに私が想定していることだ)、死は本当に本人にとって悪いものであるはずがないように思える。

死んでしまってが存在しないのなら、何一つ私にとって悪いはずがないというのは、妥当なことではないだろうか。

私が剥奪説を持ち出して、死について悪いことのうちで中心的な問題は、人生における良いことを網奪されるという事実だと言うには、剥奪説に関しては何から何まで明瞭で申し分ないと主張するつもりはない。

なぜ死が悪いことでありうるかについては、難問 まだ完全には、答えが得られていない疑問――がいくつか残っていると思う。

だがそれでもなお、私には剥奪説こそが、進むべき正しい道に思える。この説は、死にまつわる最悪の点を実際にはっきり捉えているように見える。

死のどこが悪いのかといえば、それは、死んだら人生における良いことを享受できなくなる点で、それが最も肝心だ。

死が私たちにとって悪いのは、私たちが死んでさえいなければ人生がもたらしてくれただろうものを享受できないからにほかならない。



■あなたは「不死」を手に入れたいか?

ここで問う必要のあることは、じつは二つある。
第一の疑問は、一貫性を保つためには、剥奪説を受け容れる人は誰もが、不死は良いことであると信じなければならないかどうか、だ。

もし剥奪説を受け容れながら、不死の価値を否定したら、自己矛盾を起こしていることになるのか?

第二の疑問は、たと一貫性のためだけに不死の価績を認めなくても良いとしても、不死が良いことであるというのは依然として真実なのか、だ。

あなたは「不死」を手に入れたいか?

人生には良いことがもう残っていないとする。それなら、死によって人生を奪われたとき、良いことを一つも剥奪されていないから、その時点では、本人にとって死ぬのは悪いことではない。

剥奪説によれば、死が悪いのは、良いことがやがて起こっていただろうときに限られるはずだ。

あるいは、もっと厳密に言えば、その後送っただろう人生が、全体として、本人にとって良いときに限られる(良いことのなかに悪いことが混じっている可能性がある)。

それが正しいなら、つまり、人生が全体として良いものであり続けたなら、続きの人生を失うのは、本人にとって悪いことになる。

だが、その後の人生がもたらしただろうものが、良いことではなく身の毛がよだつようなことだったら、それを避けるのは、本人にとって悪くはない。それどころか、それを避けるのは良いことかもしれない。

だから論理だけでは、不死は良いことだと私たちが信じなくてはならないことにはならない。だがそれにもかかわらず、もちろん依然として不死は良いことでありうる。

だからそれが第二の疑問だ。永遠に生きるという見通しについては、どう考えるべきなのかと問うことにしよう。

どんな種類の人生を想像すれば、そういう人生を永遠に送るなら良いと言えるだろう? 単にの一つの年だけでなく、次の100年だけでもなく、次の1000年だけでもなく、一万年でも一億年でもない。

思い出してほしい。永遠というのは、とても、とても長い時間なのだ。永遠というのは、永遠に続く。こういう生き方なら永遠にそれだけを続けたいというものを、みなさんは描き出せるだろうか?

人生がいずれ退屈になるというのがたとえ真実だとしても、人生が50年後か80年後か100年後に退屈にならざるをえないということではない。

私は死ぬまでには、自分がするのが楽しいことの表面を一撫でしただけという段階にすら至らないだろうと思う。そして、それはみなさんにも当てはまるだろうと想像している。

だが、最善の形の人生は、たった50年か80年か100年で終わってしまう、今の私たちの人生ではない。結局最善なのは、自分が望むだけ生きられることではないかと思う。



■死が教える「人生の価値」の測り方

人生は良いことをもたらしているか、それとも悪いことをもたらしているか?生き続ける価値があるか、生き続けないほうがましか?人生がうまくいっているとはどういうことか?

そう問うときに、何が人生を道徳的に良いものにするのか、と問うつもりはない。むしろ、その人生を送っている本人にとって、何が人生を良いものにしているのか、と問うているつもりだ。

「この人生を送ることで私は恩恵を受けている」と考えるのが理にかなっている類いの人生は、何のおかげなのか? 私が問いたいのは、そのような意味合いでの良い人生は(悪い人生と違って)、何を材料や成分や要素としているのか、だ。

まず、間接的に良いものと本質的に良いもの、すなわち、それが導く結果のおかげで価値があるもの(より厳密に言えば、それが導く 結果に価値があること以外に価値がないもの)と、それ自体が有益であり、それ自体に手に入れたり経験したりする価値があるものとを区別する必要がある。

たとえば仕事を考えてほしい。仕事はたしかに持つ価値のあるものだ。だが、なぜ仕事には価値があるのか? それは何よりお金が手に人るからだ。そして、もちろんお金も手に入れる価値がある。

だが、なぜお金には価値があるのか? 何と言ってもアイスクリームを買えるからだ。たしかにそのとおりだ。では、なぜアイスクリームには価値があるのか? アイスクリームを食べると快感が得られるからだ。

次に、快感はなぜ得る価値があるのか? ここで答えの質が変わる。この時点で、私たちは次のようなことを言う。快感はそれ自体に価値があるからだ、と。

他のものは手段としてだけ価値があった。突き詰めれば、それらは快感に至るための手段だったのだ。

だが、快感はそれ自体に手に入れる価値がある。手段として有益なものは、間接的(手段的)に価値がある。一方、それ自体に価値のあるものは、哲学では内在的に価値があると言う。

快感を全部足し、そこから痛みを全部差し引く。もし答えがプラスなら、今後の人生は生きる甲斐がある。プラスへの傾きが増し、その値が大きくなればなるほど、人生はますます生きる価値が高まる。

だが、もし答えがマイナスなら、将来は総じて快感を痛みが凌ぐ。悲しいことに、その場合には死んだほうがましだ。けっきょく、死んでしまえば快感も痛みもなくなるのだから。

数学的に言えば、おそらくそれはゼロで表すべきだろう。快感がないのだからプラスにはならないし、痛みがないのだからマイナスにもならず、ただのゼロになる。

快感より痛みが多ければ、そのときはゼロより悪い。それは、生きるに値しない人生だ。これが快楽主義者の言い分だ。

しかし、どうしてそんなことがありうるのか? 快感は良いものではなく痛みは悪いものではないと、私が考えているわけでは断じてない。

ただ、快楽主義が間違っているのは、本質的に重要となるのは快感と痛みだけであるとしている点だ。最良の類いの人生には、快感を手に入れて痛みを避けること以上のものがあるように思える。

人生には快感ばかりで痛みがないことより、もっと大切なことがあるからだ。というか、わたしにはそう思えるのだ。



■人生は、何もしないには長過ぎるが、何かをするには短すぎる

人生は一度きりで、やり直しはきかない。だから私たちは、死を免れないという事実、限られた寿命しかないという事実を踏まえて、人生を台無しにしうることも気づかなくてはいけない。

私たちは、やりそこないうるのだ。

私たちが気づいたときにはすでに犯しているかもしれない過ちには、じつは二種類ある。

まず、何を目指すかに関して、お粗末な選択をしてしまったことに気づく場合がある。その一方で、たとえ目標に関しては正しい選択をしていても、達成しようとしていることを実際に達成するのをしくじったことに気づく場合もある。

そのため、文字どおり最初からやり直し、もう一度試みなければならなくなる。だから、私たちは二種類の用心をしなければならない。目標を選ぶときに用心し、その目標を実現するにあたっても用心しなくてはいけないのだ。

なぜなら、物事を正しくやり遂げる時間は、かなり限られているからだ。

他に設定しえただろう目標に比べて、どう見てもはるかに価値が低いことに時間を無駄にしてきたと気づくことが本当の危険だ。

比較的短い時間(達成する価値があるかもしれないことをすべて達成しようとするには、あまりに短い時間)しか与えられていないことを考えると、最も追求する価値のあることは何かを判断する必要性という、いっそうの重荷を私たちは背負っている。

私たちはみな、やがて振り返り、目標を設定するときに、賢い選択を全然していなかったことに気づくという可能性と向かい合っている。だから、死は一つにはそういう形で私たちに用心することを強いる。

だがもちろん、それだけではない。第二に、目標が何であれ、私たちはどうそれを達成するべきかにも注意をしなければならない。

人生では、やり直すことができるだけの時間をときどき与えられるかもしれないが、じつのところ、そう何度もやり直す時間はない。だからこの点でも、死は私たちに用心することを強いる。


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皆さんも一度は「死」について考えたことがあるだろうと思う。

「死んだらどうなるんだろう」「ずっと生きていたい」と思ったことももちろんあるだろう。

本書では「死」って結局どういう概念なの?ということを考えさせられる内容になっている。しかし、思うに明確な答えが出ない、疑問を投げかけられる場面もある。

人生において「死」というテーマは避けては通れない。

人は必ず死ぬけど、だからどう生きるの?ということを考えていこうと思う。

簡単に要約すると、まず、人は身体(人格機能)が死んだとき、人は死ぬ。死んでしまったら、将来的な良いことを剥奪されるためよくない。

しかし、それは人生が良いことが前提であるということ。仮に、悪い人生の場合自殺という選択肢も正当な場合もある。

では「死」という概念がない不老不死は幸せなのか?と考えるだろう。しかし永遠という終わりのない時間の中では、退屈が避けられないのだ。

永遠に送りたいと思える人生があるだろうか?退屈から逃れられない不死は生き地獄と変わらない、しかし、80年ぐらいの短い人生では良いことの表面を撫でただけにすぎない。

結局私たちが望む時間は、任意の時間になる。「好きな人生を好きなだけ」ということになる。もしそれが可能になれば、そのような人生が送れる人達を素直に羨ましいと思う。

だが、恐らく私たちが生きているだろう将来の寿命は100年くらいになるだろう。

私は現在31歳なので、たった70年しかない。70年もあるじゃないかという人もいるだろうが。

この70年という時間をただただ過ごしていれば、長すぎる時間だろう。しかし、何かをやり遂げるにはそう長くない。失敗を何度も繰り返すことができればいいが最後には寿命や健康という制約を受けることになる。

私たちは限られた時間の中で「なにをするのか、なにをしないのか」という責務を抱えながら生きなければならないのだ。

面白いことをするには、あまりにも人生は短すぎる。


私の情報が少なからず皆さんのお役に立てればと思います。

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