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宮崎のおいしい「水」

 世界的な新型コロナウィルス流行の中、うれしい話題が一つ飛び込んで来ました。
 NHKでTVアニメ『未来少年コナン』が放送される、ということです。

 本放送が78年ですから、40年以上も前に作られたアニメなのですが、とにかく面白い。先日、岡田斗司夫氏も「全ての回が外しなし」と言われていましたが、まさにその通り。
 私は「宮崎作品で見るべきは?」と問われたら間違いなく『コナン』と『カリ城』を挙げます(←老害発言)。

 『コナン』は巨匠宮崎駿が唯一、全話を演出したTVアニメ。それだけでも注目に値する作品ではあります。

 で、今回私が『コナン』で注目してもらいたいポイントとして取り上げるのが「水」の表現です。

 人が水に飛び込んだり浮かび上がったりする瞬間をアニメーションにする時、水面の揺らぎやうねり、しぶき、そして煌きといった様々な表情を描かねばならない。だから水の表現はテクニックが問われる描写になります。アニメ『映像研には手を出すな』でも水崎氏がお茶を飛ばす水滴の描写にこだわるシーンがありましたね。

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かのダ・ヴィンチも水の動きに目を凝らして描写したメモを残しています。千変万化の水の表情を捉えようとした人は他にもモネなどの印象派に遡ることもできます。古くから人は水を描こうと様々な工夫をしてきたことが窺えます
 

 水表現で古典的傑作といえば、やはりディズニーを挙げなければなりません。『ピノキオ』(40年)や『ファンタジア』(同)での名アニメーター、ジョシュア・メダーによる荒れ狂う海の水しぶき表現は、今でも目を見張るばかりの迫力です。

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Joshua Meador(1911~1965年)。ピノキオの嵐の海のエフェクトなどで有名な名アニメーター。彼の描いた当該シーンはさすがに恐くてアップできない笑

 しかしそれから数十年を経た今、水もしくは海を舞台にしたアニメは、ほとんどをコンピューターで描いています。
 私が気になるのは多くの場合、海は何故かベタ凪の状態で白浪も立たず、のっぺりとした姿を見せているところです(「寒天」とか言われているそうです。たしかにプルプルしたゼリーみたいに見える)。

 これだとハッキリ言って海は「背景」でしかなく、それ以上の主張を私たちに示してくれることはありません。ただのカキワリに過ぎず、なんら演出上の意味が持たされてはいないのです。
 そして、それなら話の舞台を海にする必要すらなくなる。

 海には表情があります。特に自分の生まれ故郷近くの海は、見慣れた海・原風景として心に染み付いている。
 私は九十九里の生まれなので、海はだだっ広い砂浜とそこに打ち寄せる波の姿で、岩場はなく透明度も低いものです。
 これが湘南あたりの生まれの人であれば富士山の火山灰が作り出した黒っぽい砂浜でしょうし、日本海側で育った人であれば波の荒いが透明度の高い海を連想するはずです。

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私にとっての「海」。九十九里の海

 しかし今、TVアニメで見られる海にはそういった表情が希薄に見えます。絵に描いたような(実際描いているのだけど)ザ・南の島の海!といった姿ばかりが見られる(海が主題ではないアニメの場合、水着回や温泉回くらいしか水の表現がないのですが)。

 改めて『コナン』の水表現に注目する理由がここにあります。宮崎は「水・海」を作品世界の中に取り込み、効果的に活用しています

 『コナン』の舞台はほとんどが水没した世界です。
 オープニングのタイトルバックではビルの廃墟を写し、ここが「文明が一度滅びた世界」だと説明しています。
 そして注目したいのはオープニングで描かれる「水」の表現。1分20秒ほどのオープニングの大半、約1分間という時間を割いて、徹底的に海と、そこでのコナンとラナしか描いていません。これはかなり勇気がいることです(同じNHKで放送された海洋冒険アニメで、海のイメージが強い『ふしぎの海のナディア』でもOP1分24秒中で25秒程度)。

 海を舞台にしたアニメ作品は数多くありますが、ただ海だけを描くことは演出家やアニメーターにとっては怖いこと。何故なら画面が単色になりがちだから。海を描くことは同時に空も描くことも多くなり、結果画面全体が青ばかりになってしまいます。

 ですから他のキャラクターやメカ、背景などを入れたりして抑揚をつけるのですが、宮崎はそれを一切拒絶する。モンスリーもレプカも、三角塔もバラクーダ号すら描かない。オープニングをこれから放送されるアニメの紹介として捉えるなら、ついそれらを入れてしまいそうなものです。「これからこんな所に行きますよ!」「こんな敵が出てきますよ!」と。
 しかし徹底的にラナとコナン(とアジサシのテキ)しか描かない。

 それはとにかく「みんな、この2人だけ見てて」という確固たる目的があるからです。
 それだけを主題にしてオープニングを作っている。それは言い換えれば、今後物語がどれだけ進展していっても、この2人だけ見ていればいいですよ、という道案内にもなっている。

 コナンが船を操り、舳先にはラナが座っている。船は大波を乗り越えて着水して水面が割れ、左右に広がる。どんな波にもコナンは笑顔で舵を操り、ラナは舳先で行先を示している。

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水面越しに見えるコナン。色指定はその後も長く宮崎作品に携わる保田道世さん

 今の感覚では、水の描写は決してそこまでリアルというほどではありません。しかし限られた枚数、限られた色数で巧みに水を描写すると共に、僅か1分半ほどしかないにもかかわらずコナンとラナの関係、キャラクターを想像させてくれるオープニングになっています。さすが。

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水面を海中から見上げる。網目状の泡を入れることでそこに水面があることを説明する。そしてその向こうで揺らめく太陽

 このような水を用いた巧な演出は翌年の劇場アニメ『ルパン三世 カリオストロの城』にもあり、各所で効果的な効果を生み出しています。『カリ城』の影の主役は水ですよ

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とっつぁんの顔。銭形は大マジメだし、それなりにシリアスなシーンでこういう表現を入れてくるから笑いが起こる

 他にも『トトロ』で出てきた家の前の水路や井戸水といった生活用水の描写、『紅の豚』のアドリア海の爽やかさ。そして宮崎本人が極限まで到達したと言った『千と千尋』

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富野監督と宮崎との違いは、アニメを表現の手段とするか目的とするかだと思う。宮さんは本質的にアニメーター、つまり表現したい人なのよね

 そしてそれらを叩き壊した『ポニョ』。CGを使ってリアルな表現を高めていくのではなく、むしろローテク風な、本来的な意味でのアニメーションに立ち返ろうとしています(『風立ちぬ』でもその路線は変わりませんでしたね。効果音まで人が出していました)

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完全にローテクかと思いきや、映り込みや水しぶきなどに細かなテクをぶち込んでやがるのが宮さん。だからあくまでローテク風

 一方、ディズニーは『モアナと伝説の海』(2016年)でこれでもかと海と水をリアルに表現した。しかしここまでくると「新しい水表現のソフトを開発したので使いました、見てください」みたいになってしまう。こうなると水は表現の手段として物語を脇から補佐するのではなく、主役として前に出てくる(キャラクターとして海がこの映画のテーマでもあるのですが)。

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 近年のアニメ映画『海獣の子供』(2019年)では舞台のほとんどが海でした。劇中では海岸、嵐、沖合などの海が様々な表情をもって描かれていました。他にも夜の海という表現の難しいシーンでも、月の光や海ほたるの光などを利用して海面の様子を間接的に描いていました。

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CGを駆使して手描き・背景画をハーモニーさせる現代的(新海誠的な)表現が効果的に使われていました

 黒沢明が『七人の侍』で、モノクロの画面で雨を際立たせるのに墨汁を混ぜたように、表現の手段として水をどう使うかにはクリエイターの個性が強く出ます。水を表現を物語に取り込みながら巧みに活かす、宮崎の凄みがこの点からも垣間見えるのです。

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