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キャメルパトロール艦隊戦に見るアムロの「強さ」表現

 いきなりこんなタイトルで話を始められてもなんのこっちゃ、とお思いになる方がほとんどだと思います(笑)。キャメルパトロール艦隊とは映画『機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙』の冒頭で出てくるドレン大尉率いるキャメル・スワメル・トクメルの3隻からなるムサイ艦隊の名前です。

 『めぐりあい宇宙』のアタマは、劇場2作目『哀・戦士』のラストでジャブローから宇宙に上がったホワイトベース一行を、シャアの乗るザンジバルが追撃しているところから始まります。そこにシャアから連絡を受けたドレン率いる3隻のムサイ艦隊が待ち構えている。しかしニュータイプに覚醒しつつあるアムロは圧倒的な力を見せつけてそれを全滅させ、寄港地サイド6に向かう、というシークエンスでした。

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 映画の冒頭としては非常にインパクトのあるものですし、何より新しく描き起こされた安彦さんの画がすげぇ!と大満足のシーンなのですが。

何故富野監督はこのシーンを冒頭にしたのでしょうか?

 劇場版『Gのレコンギスタ』の冒頭ムービーが今、公開されていますが、これもTVシリーズのオープニングからは若干の変化がつけられている(ちょっと説明口調のセリフになっていたり)。
https://youtu.be/PNnEWx5kxKw

 TV#30「小さな防衛線」までが『哀・戦士』で語られている部分でした。その後#31「ザンジバル追撃」が丸々飛ばされ、#32「強行突破作戦」の、中でもBパートであるキャメルパトロール艦隊戦が『めぐりあい宇宙』のアタマに来るわけです。 

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存在してないことになってしまった。

 1話と半分、具体的にはトクワンのビグロとデミトリのザクレロ戦が丸々カットされていることになります。
 「ここは本筋に関係ないから、飛ばして良かったところなんじゃない」とも思うのですが、性根が富野信者である私はここにも演出に何らかの意図があるのではと想像してしまうわけです。
 TV版を見ている人は分かっていただけると思うのですが、ホワイトベースの立ち位置はTVと映画では大きく異なります。その違いがこの対キャメルパトロール艦隊戦の演出で示されているのです。

 TVアニメ『機動戦士ガンダム』のエポック・メイキングな部分は、キャラクターの心情・戦況や周囲の環境が前の話から引き継がれ、リセットされないところにあります。今となっては実に当たり前なのですが、それが当時は画期的なことでした。

 その点から改めてTVシリーズ『ガンダム』を見返してみると、キャメルパトロール艦隊との戦いに向かうホワイトベースとそのクルーが、『めぐりあい宇宙』で示されているような堂々とした戦いではなかったことを見て取ることができます。

そもそもタイトルが「強行突破作戦」。何もかもかなぐり捨てて、死に物狂いで活路を見出そうとしている

 ジャブローを発したホワイベースは、ザンジバルに積まれていた新型MAビグロ(+新型のリック・ドム2機)、そしてシャアに無断で出撃したザクレロによる波状攻撃をなんとか退け、一路人工衛星軌道を目指しています。

 この段階ではサイド6にも、月にも向かってはいない。何故ならホワイトベースの作戦目的は後にジャブローを出撃するティアンム艦隊の陽動だからです。できるかぎり敵を引きつけ、無事にティアンム艦隊を宇宙に上げなければならない。そしてその後は直接ソロモンへ向かえ、と。2話前の#30でその非情な命令を与えたゴップ提督にブライトはイラついてます。

 確固たる行き先もなく、ただただ敵の攻撃を受け続けなければならないホワイトベースのクルーの心中は穏やかではありません。そのことが、パイロット控え室で仮眠をとるだけで出撃しなければならないセイラの姿からも示されています(この辺りのことは氷川竜介さんも指摘していますね→
https://www.gundam.info/special-series/native-gundam-remastered/special-series_native-gundam-remastered_20080226_155p.html

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 まるでダンケルクか硫黄島のように、悲壮感の中にいたホワイトベース。一方、徐々にそれを追い詰めているシャアは、付近にいたキャメルパトロール艦隊を率いる昔の部下ドレンを呼び出します。
 ここでの指示はホワイトベースの前面にキャメル・スワメル・トクメルとモビルスーツ部隊を展開させ、ホワイトベースの足を止める。そこにザンジバルで追いつき包囲殲滅を図る、というものでした。追撃戦の仕上げをするつもりです。

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 それに気づいたブライトは時間をかけていては危険だと判断、速度を上げて強行突破を敢行します。
 対してシャアも包囲を完成させるためにザンジバルの加速を指示します。

 一方、ドレンは当初はムサイ3隻を全て使用せず、スワメルを後詰めに配置し、ムサイ2隻とリック・ドム6機で攻撃に出ています。これは万が一にもホワイトベースに突破された時の準備だと思われます。

 以上が戦闘開始前の状態ですが、シャアは元よりブライトも指揮官として成長し、瞬時の判断で戦況に応じていることが見て取れます。

 一方、ホワイトベースのパイロットたちですが、まず初出撃のスレッガーとの連係が上手くいかず、敵リック・ドム隊のホワイトベースへの肉薄を許してしまいます(カイ「スレッガーさんかい、早い、早いよ」のところ)。
 こういった部分をセイラから「敵と同じように分かれては」と窘められています。

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 そしてアムロですが、この段階ではまだガンダムは出撃できていません。これは直前のザクレロ戦の影響だと思われます。
 またアムロは出撃前、盛んにセイラやスレッガーにGアーマーの使い方をレクチャーしています(スレッガーからは面倒くさがられている。映画ではその役はメカニックに代わっている)。

 またブライトは対空砲火とムサイへの攻撃を指示。この時、ムサイの艦橋とエンジンに攻撃を集中させるように言っています。間違ってムサイの砲塔を破壊してしまったことに怒鳴っているくらいです。
 これは補給を受けられる見込みが薄い現状にあって、弾薬やエネルギーの消費を抑えたいという思惑があるのでしょう。 

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命中した所が悪いと怒る理不尽笑

 さて、ホワイトベースの懐にモビルスーツを飛び込ませることに成功したドレンは、後詰めだったスワメルを前進させ、シャアが到着する前に決着をつけることを図ります
 この時、攻勢に出てくるホワイトベースを受け流すように戦力を展開し、シャアの来援を待っていたら戦局は大きく変わったかもしれません。ドレンのスケベ心が大魚を逃したわけです。

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戦場の概略図

 さて、ここでやっとガンダムが出撃します。この直前、艦砲射撃によってトクメルは撃沈。ブライトは各砲撃手に「狙いは左のムサイ(キャメル)だけだ。右は忘れろ」と指示します。つまり、ガンダムには右のスワメルを攻撃させる。

 アムロは真っ直ぐムサイには向かわず、出撃してすぐに天頂方向に飛びます。なので「フラシィは見ていないと言っています」となるわけです。

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 その後天頂方向からムサイに接近したアムロはブライトの指示通りに艦橋とエンジンを攻撃しスワメルを撃沈。返す刀でキャメルの艦橋を破壊、さらにエンジンを攻撃しこちらも沈めます。最後に残っていたリック・ドムと見事なチャンバラを決め、戦闘は終了します。

 このチャンバラもとてもカッコイイのですけどね。「上か?……下か!」って。映画では丸々カットです。

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 その後、突破に成功したホワイトベースは、月に向かえばザンジバルの追撃を受け続けることになるという計算結果から進路をサイド6に採る……というのが、TV版での流れになります。 

 以上、ここまでで示したいくつかのポイントが、『めぐりあい宇宙』では変えられている、というのが今回の主題です。そのために長々と書いてしまいました。
 そのポイントは①ホワイトベースの状況、②ジオン軍の作戦、そして③はアムロのニュータイプ能力表現の3点です。

 特に③について、TVでは周囲へアドバイスをしたり敵とチャンバラしたりして「強さ」を表現していました。それが後にガンダムの反応が間に合わないという事態になり、#40でのマグネットコーティングによるパワーアップへの繋がっていく突き詰めて言えば「メカの性能と操縦技術」の良し悪しでしかアムロのニュータイプ能力は示されていないのです(ララァとシャリア・ブルに会ってからは「エスパー」的になってくる)。
それが『めぐりあい宇宙』でどう変化したのかを、次に見ていきましょう。 

 まずホワイトベースは当初からサイド6に向かう予定です。月に向かうと見せかけてサイド6へと向かう。その行動が陽動となってティアンム艦隊が出撃します。

 シャアはそれに気付き、ドレンを呼び出しホワイトベースを狙います。ここは同じ。
 ドレンも「宇宙がお似合いですなぁ!」(このセリフはTVにはない)なんて軽口を言うくらい、ジオン側には余裕があります。それがわずか数分後にはひっくり返るのですが。
 だから後詰めなんてまどろっこしいことはせず、最初からムサイ3隻の全艦で展開します。シャアも急ぐ素振りはみせていません。ですから、あまり包囲しようと考えているようにも見えません

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 一方、ホワイトベースもジャブローで修理を受け、補給も充分、次の寄港地もサイド6と決まっていますから余裕があります。キャメルパトロール艦隊を発見しても、それまで波状攻撃を受けていたわけではないので、最初から全機発進。御存知の通りガンキャノン×2、新戦力のコアブースター×2、そしてガンダムです。

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 出撃後、スレッガーさんが相変わらず早く撃ってしまったり(笑)しますが、全体的に連係を保ちながら敵リック・ドム隊と交戦しています(カイが「下に行くぞ!」と指示出したりとか)。

 しかし結局そこをすり抜けられて、敵はホワイトベースに接近。

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 この時、ホワイトベースも艦砲射撃を始めていますが、TVと同じようにメガ粒子砲がムサイの砲塔を破壊しても、ブライトは怒りません。ここからもTVと違う余裕が感じられます。またブライトが艦橋・エンジンへの攻撃にこだわっていないことを覚えておいてください。

 この艦砲射撃によってトクメルが戦闘不能になったことを受け、ドレンはキャメルとスワメルによる砲撃でホワイトベースを沈める方針に切り替えた、その時。

 頭上からガンダムが襲ってくるわけです!
スワメルをエンジン→艦橋→砲塔の順に打ち抜き、最小限で戦闘不能にしたガンダムは、そのまま援護のドムごとキャメルの艦橋を撃ちます。ドレン死亡。

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 その後もほぼ一撃ずつでキャメルのエンジンを破壊し、キャメルパトロール艦隊は壊滅します(砲を破壊され無力されたトクメルが沈没したかは不明)。

この間、僅か2分(ザンジバルとの接触まであと30秒、というアナウンスからそれが分かる)。

 全体的に余裕の横綱相撲。悲壮感漂うTV版とは全く違います
 この勝利はミライをして「今の私たちの戦いぶりを見ていればシャアは追って来ない」と言わしめるほど。ブライトは流石にコアブースターを後方に展開、砲座も後ろに向けながら戦域を離脱していく様子にすら貫禄を感じさせます。

 またアムロの戦いぶりも、ピンポイントで艦橋・エンジンを狙撃していますが、これはTVと違いアムロの独断によるものという表現がされています。淡々とクリティカルヒットを決めて、ムダな労力を使わずに戦果を得る。それにホワイトベースに戻っても特に喜びの表情も見せず、カイから「ニュータイプ、ニュータイプw」とからかわれても無視・無反応を決める余裕。

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 ……以上が『めぐりあい宇宙』での対キャメルパトロール艦隊戦です。 

先ほど挙げた3つのポイントについて整理すると、以下のようになります。

①ホワイトベースの状況
 TV→悲壮感、疲労、補給の不安
 映画→余裕、地球で成長してきた存在感

②ジオン軍の作戦
 TV→波状攻撃の仕上げ、ドレンのスケベ心
 映画→余裕だったものがひっくり返る

③アムロのニュータイプ能力表現
 TV→操縦について他者にアドバイス、チャンバラで勝つ操縦の巧さ
 映画→淡々とこなす。最小限で最大限の戦果。直感的

 さて、改めてこれらの変化について分析すると、そこにはTVから映画にするにあたってのメインテーマの変動があるのだと考えられます。

 TVでは「君は生き延びることができるか」という言葉が示す通り、常に敵の恐怖に怯えながら必死に戦い、その中で成長していく少年少女の姿が描かれています。
 しかしそれを映画として再編したときに、以前も書きましたが「ニュータイプ」という存在がひとり歩きし始めている。

 結果「ニュータイプとしての強さ」を画面で表現する必要ができてしまった。

 つまり、平たく言えばこの戦いで描きたかったのは「アムロがすげー強くなっている」ということなわけです。 

 ロボットものにしろ他のアニメ・マンガにしろ、強さの表現とは明確で「自分より強いやつに勝つ」「敵に強さを見せつける(敵がビビる)」「視覚的・感覚的にパワーアップしているのが分かる」くらいしかない。
 敵に勝つ・敵がビビるというのは少年漫画のバトルものに多いと思います。なにせ分かりやすいですから。またガンダム放送当時はまだスポ根モノが受けていた時代ですが、それも大体が「強いライバル(敵)と戦う」→「負けて特訓、パワーアップする」→「勝つ」という流れになっている。

 そういったスタイルが一般的なパターンになっている時でも、富野監督はそれを安易に使うことはしない。単純にパワーアップパーツを付けて「つおいぞ、ガンダム!」とはしない。全く別次元の存在、ニュータイプを表現するための「舞台装置」として一度使った戦闘シーンを演出し直しているのです。

 そして、その結果が「今あるツールを最適化し、最大限の戦果を上げる使い方をするアムロ」というものだった。『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』でニュータイプを真正面から取り上げ、その存在を表現するという目的のためにこの戦闘シーンは必要であり、またそれゆえに意味合いを変えることになったのではないでしょうか。

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 その後の「強さ」表現について蛇足的に書きます。

 少年ジャンプ的なバトル漫画では、その後は体の周囲に「オーラのようなモノ」をまとわせ強さを表現するのが主流になっていきます。それはガンダムでも同じになり、ニュータイプはおしなべてなにやらオーラに包まれているようになる。そのうち、人だけでなくモビルスーツまで。

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 その点で考えると、涼しい顔をして敵に余裕を見せつけて勝つ、という『ワンパンマン』はメタ的に「強さ」表現のパロディをしている。

 一方、ニュータイプ表現については監督も諦めているように袋小路に向かってしまう。それは映画公開直後の監督の以下のコメントを見ても分かります。

 映像では超能力者的表現でしか語られないニュータイプの邂逅。論理として、生物学的に人の革新が語られぬ不手際さ……。一体、ニュータイプとはどこに行ってしまったのだろうか?……(中略)……映画版を得た『ガンダム』であっても、テレビ版以来の2年の間、半歩たりとも前進することなく終息するわけです。(『めぐりあい宇宙』プレスシート)

この程度にしかニュータイプを示せなかったことに監督は幻滅しています。が、その後の富野監督以外が演出した様々なニュータイプ表現の、そしてその「強さ」表現を考える時に、この『めぐりあい宇宙』での演出は一つの理想形を示していると思うのです。

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おおきくてつおいガンダム。オーラも増し増しで。

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