見出し画像

読書的スランプと僕の中の余白について

やれやれ、いったい僕はどうしてしまったのだろう?

本が読めなくなった理由は、よく分からなかった。村上春樹がすごく好きで、著作は大体読んできた。しかし、『女のいない男たち』のあたりから、自分の中に小説を読むという体力や気力がほとんど残っていないことに気づいた。どんなに読みたいという気持ちをもっていたとしても、そもそも本に向かえないか、読み始めてもすぐに疲れてしまう。かつては、氏の描く瑞々しい風景描写や、人物の独白によって名前のもたない感情に色付けしていく様が、色鮮やかに、それでいて静かで心地よく自分の中に入ってくるように感じられた。しかしある時から、全てがコントラストのない、グレーな世界に陥ってしまっていた。

これを読書的なスランプと呼べるのなら、スランプはかなり長い間続いた。思い返せば、具合もよくない時期だったのかもしれない。しかしそれだとしても、長すぎた。村上春樹を摂取しすぎたのかと考え、別の作家の小説や、仕事に関係ありそうな新書を手にとっても、全く読めなかった。村上春樹がよく用いる「やれやれ」という言葉がとても似合う状況だ。そんなことは望んでいないのに。

小説を読むというのは、映像作品や音楽よりも読み手に委ねられている要素が多いと考えている。身近なコンテンツと比較すると、漫画も動画も、ある程度説明があり、こちらがあまり何も考えていなくても、脳は理解しやすい。

しかし文章となると、同じ描写でも、読み手の生活経験によって「分かりみ」の程度や種類はかなり異なってくる。知らない言葉も出てくる。「鯨のような男」と言われても鯨が何か知らなければ分からない。「イパネマの女」と言われても、イパネマが何か分からなければ想像しようがない。

また、「分かりみ」を感じる器官が弱っていては、字は漫然とそこにあるだけになる。当時スランプだった僕にとって字はどこまでいってもただの「字」であり、それ以上の意味を持たない。五十音表をぐちゃぐちゃにしてそれを眺めているのと変わりがない。僕は多分、この器官が弱っていて、小説を読むようなパワーは到底なかったのだろう。

それが、つい先日、氏の出した新作『街とその不確かな壁』によって僕のスランプは唐突な終わりを迎えた。つまり、「読めた」のである。

読める、読めるぞ!

村上春樹の作品あるある、っていうのが自分にはあって、『街と』を読んでいると地元に戻った時さながら色々な「あるある」を発見でき、懐かしく熱い気持ちになった。

小さいものだと、カタカナ語には中点(・)を入れる(テニス・シューズとかヨット・パーカのように)とか、セックス導入がぬるっとしてる(いつの間にか始まる)とかがある。作品の流れで言うと、女を失い(行方不明か死別)、それをどう乗り越えるか? というのが主軸になりがちである。以下【 】の中は、若干ネタバレなのでご注意ください。【『街とその不確かな壁』も例に漏れず、女の喪失が起きる。ただ、他の作品と違って結果として失われるのではなく、序盤に、物語の起点として喪失が起きているのが違うところだった。】そんな「あるある」をこの物語の中にたくさん見出し、僕は踊り出したい気持ちだった。あるあるが分かったのは、ちゃんと読めているからだ。僕は二重に嬉しかった。

そして、僕は考えずにはいられない。なぜ今まで本が読めず、今読めるようになったのか。ずっと謎だったが、ラフに言うと、余裕がなかったからだろうと思う。気が向いたら記事にするが、大親友が7年前に病気で亡くなったことを最近やっと受け止められていることとか、元交際相手と1年ぶりくらいに話して気持ちの整理をしたとか、そういう喪失を乗りこなす術が続けて見つかったことが、自分の中で村上春樹を解するための余白をもつことに繋がった気がするのだ。村上春樹が描く喪失と復活の物語に対し、ただ傷付き落ち込むのではなく「そんなこともあるよね。分かる。」と受け止められる準備が、今、整ったのかもしれない。

たぶん僕はまた村上春樹が描く世界を歩けると思う。シーヴァス・リーガルは飲んだことないし、ジャズだって詳しくないけど。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?