小説『愛子の日常』 本編1.
〜セントの記憶 Ⅰ.〜
何はともあれ、セントとその女の子は再び出会う事になるのだが、その時の記憶はあまり覚えていないのがセントである。というのも、あまりにも自然な出会いすぎてセントにとっては日常生活の一部としか思っておらず、一つの思い出として頭の片隅に記憶する事すらなかったからだ。
今となっては、どうしてこの女の子と付き合っているのか分からないほど、告白した記憶もなければ、付き合った経緯も覚えていない。
セントにとっては、その女の子と付き合っているという事実は二の次の話で、日常生活の方が優先され、その子を自らの意識の中に入れようとすらしなかった。
しかし、その女の子に対するセントの振る舞いとは真逆に、その女の子はセントの頭の中をかき乱し、セントの人生観や世界観を翻させ、セントに大きな影響を与えていくのだった。
「大西さやか」その名前が、セントの頭に鮮明に刻まれた出来事があった。
ロンドンからバスに乗ってグリニッジ天文台へと旅をした帰りの出来事である。
世間から見れば、それは女の子とデートをしたということになるのだが、セントにとってはそれは旅だった。
そう、セントはこれまで女の子とデートをした事などない。
今回も、これがデートというものだとは気付くこともなかった。
しかしその旅は、人間付き合いで冷え切ってしまったセントの心に、あなたの心は冷え切っているのだとはじめて気づかせるのには、十分な時間を与えていた。
その帰り道は、まるでセントの冷え切った心が自然万物にまで乗り移ってしまっているかのように、冷たい雨がしんしんと降っていた。
雨は二人の傘を打ち、やむ気配はなかった。
グリニッジ天文台からは、二つの傘の後ろ姿だけが見えていたのだが、二つの傘はぶつかり合うこともなく、なにか不自然な距離感を保ちながらバス停の方へと消えていった。
それから少し遅れて、バス停の方へとバスがやって来た。
二人にとっては冷え切った身体が待ちに待っていたバスだったはずなのだが、セントはホッとするどころか、どのようにしてバスに乗り込もうかと思い悩んでいた。
よりにもよって、そのバスには誰も人が乗っていなかった。
一緒にいた相手が女性だからというわけではないが、相手が先にバスの座席に腰を掛けてしまったら、自分は何処に座っていいのか分からなくなるに決まっていることをセントは知っていた。
もし二人掛けの席の窓際に彼女が座ったら、自分は何処に座ったらいいのか??
こんなに座席が空いているのに、わざわざ彼女の横の席に座る必要があるのか???彼女は迷惑がらないか????
そうは言っても遠くの席に座る必要があるのか?と何度も何度も思い悩んだ。
結局セントは、バスの扉が開いた瞬間、我先にと二人掛けの席の窓際を陣取って座った。
こういう状況に陥った時に、セントがよくやる秘策でもあった。
その後に彼女は続いた。
なんの躊躇いもなく、セントに導かれるように、セントの隣の席にポツンと座った。
セントは、雨で濡れたのか、冷や汗で濡れたのか分からない洋服の湿り具合に、気持ち悪さを感じ、背もたれに寄りかかることもできずにいた。
さて、二人が座席に座り終わると、バスは扉を閉め動き出した。
座席の下に取り付けられているヒーターからは温かい空気が流れ、二人の濡れた服を乾かし、冷え切った身体までも温めていた。
バスは無言のまま、何駅かバス停を通り過ぎ、彼女が降りるバス停へと何の問題もなく向かっていた。
問題ばかり抱えるセントに、これ以上考える隙を与えないほどバスはスムーズだった。
セントはというと、ここでも問題を抱えていた。無言の気まずさと、彼女がバスを降りる時どのように振る舞っていいのか気をもむ心がそうさせたのだ。
しまいにバスのスピードはゆっくりになり、すぐにバスは止まった。
ついにその時がやって来たのだ。彼女は立ち上がった。
セントは唾を呑み、恐る恐る彼女を視界に入れた。
彼女は明るくセントに手を振り、今にも踊り出しそうな軽いステップでバスから降りていった。
あまりにも気さくな振る舞いに、いつもなら会釈でもしてこの場を乗り越えようかと考えてしまうセントも、拍子を抜かれ不器用そうに手を振りかえしていた。
彼女はバスから降りると、セントに向かって再び手を振った。
セントは軽く会釈をし、いつバスが走り出すのかと気を揉んだ。幸いにも、この気まずい空間から助け出してくれと言うセントの祈りは通じ、バスはすぐに動き出した。
「ふ〜〜」という吐息が人のいないバスの中を流れ、時が止まったかのようにセントの視界には動く物は何も入らなかった。
少し大袈裟だが、この後は何かの祝福が訪れるとすら思えた。
しかし次の瞬間、セントにとってみれば最悪の事態が起きてしまった。
赤信号でバスが止まったのだ。
さっきお別れしたばかりの彼女とまた出くわしてしまうのではないかという不安が一瞬セントの脳裏をよぎった。
嫌な予感は的中した。
彼女は赤信号で止まっているバスに追いつき、セントと視線が合うとこまでやって来てしまったのだ。
何度同じような場面を迎えたことだろう。彼女には手も振ったし、会釈もした。つまり、セントができる振る舞いは全てやり尽くしてしまっていたのだ。
その手前、再び会釈をするわけにもいかず、困り果てた末にセントの思考は完全に止まってしまった。
いつもなら思考を回し続けて何気ない振る舞いでその場をやり過ごすセントだが、この時ばかりはどう振る舞っていいのか分からず時が止まった。
セントは覚悟を決めるしかなかった。
先程までうっすらと横の方に感じていた彼女の視線は、セントの斜め前にまでやってきた。
セントはなす術がないまま、彼女の方を見ざるを得なかった。
しかし、この状況下で、彼女は再びセントに手を振ったのだった。
セントにとっては、信じられない出来事であり、受け入れ難い出来事でもあった。
高度に洗練され考え抜かれた自らの振る舞いの上をいくものを見たのだから、それも無理はない。
次第にバスは彼女の歩くペースに合わせて動き出し、徐々に加速し本来のスピードを取り戻していった。
彼女はその間、一歩歩くごとにセントに向かって手を振り、何度も何度も手を振り続けた。
バスの窓越しに見る彼女は、あまりにも自然で、まるでミュージカル女優のように壮大で美しく見えた。
彼女を見送った後、セントはしばらくの間、彼女の振る舞いに思いを馳せた。
そこには、セントの理論など通じる余地もない、コミュニケーションの枠を超えた、セントが理解することができない感情が見え隠れしていた。
時を忘れ、自らを失ってしまう程、セントの意識は自らの思考から離れた所をさまよっていた。
「ブーッブーッ」聞き慣れたその音に、セントは我に返った。
いつものごとく、音が鳴ったスマートフォンをポケットから取り出すと、明るくなったホーム画面を見た。
「今日はありがとう!」
ホーム画面に出てきたそのメッセージを開いてみると、差出人には sayaka oonishi と書いてあった。
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