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仏教に学ぶ生き方、考え方「柱時計」

 子どもの頃、居間に柱時計がありました。

 毎時ちょうどに、時計の中に仕組まれた小さな鐘を鳴らして時を知らせてくれる時計です。

 動力は「ゼンマイ式」でしたので、止まりかけると椅子の上に立って背伸びをして、高いところにかけられた柱時計のネジを巻くのが子どもの私の役割でした。

 でもそれはとても楽しいひとときだったことを思い出します。

 今はスマホですぐに正確な時間がわかりますが、昭和の柱時計は、テレビの時報に合わせてこまめに針を調整して時刻を合わせたものです。

 ゼンマイ巻きにしろ、時刻合わせにしろ、こまめに面倒を見ないといけないものであり、それを怠るとすぐにズレたり止まったりしたものです。

 話は変わりますが親しい方が亡くなると、その悲しみがいつまでも続いて前に進めなくなることがあります。

 思い出が次々と思い出され、生活の様々な場面で居なくなったことを実感させられ、寄せては返す波のように悲しい気持ちに飲み込まれてしまうのです。

 でも毎日の生活や仕事は次々にやってきますから、そういったことを乗り越えて日常にもどらなければなりません。

 でもその労力はかなりのもので、疲れてしまうことも多いものです。

 でも果たして悲しみは乗り越えていかなければならないものなのでしょうか?

 悲しい気持ちに蓋をして閉じ込めて、それを日常生活で上塗りをするだけでは、本当の意味では悲しみを解消しているとは言い切れませんよね?

 でもだからといって悲しみに浸ってばかりもいられません。

 そんなときには、昔の柱時計のように、「その人との時計を持っている」と考えるようにされてはいかがでしょう?

 その時計は今は止まったままですが、ゼンマイを巻いていないだけで、確かに心の中に存在しているのです。

 そしてそれとは別の「日常生活」という時計も持っていて、それは動き続けていると考えるようにしています。

 そう考えると、今の自分にはいろんな時計が存在しているなと感じます。

 子どもの頃の時計、学生時代の時計、仕事を頑張っていた頃の時計、子どもたちと遊んだり出かけたりした頃の時計などなど。

 その時計は今は止まっていても、またネジを巻きさえすれば動き出すはずです。

 中陰法要や年回法要、またお仏壇に向かうひとときは、まさに亡くなられた方との時計のネジを巻くことなのではないでしょうか?

 その時々の思い出の時間をそのままで大切にしていますよ~と思えるひとときと言ってもいいでしょう。

 そして今まで過ごしてきた沢山の方との時間が、今の自分の心の基になっていると思えれば、きっとこの瞬間に感謝できるはずです。

 そしていつか自分の日常生活の時計も必ず止まるときが訪れるでしょう。

 でも、誰かがその時計のゼンマイを巻いてくれれば、その人の心の中でまた「コチッ、コチッ、、、」と時を刻み始めるかもしれません。

 そうやって皆さんの心の中で柱時計を動かし続けることができたらそれに勝る喜びはございません。


★今日の一句★

 手をあわせ
     柱時計の
        ネジまわし

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