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仏教に学ぶ生き方、考え方「キサ・ゴータミーの生き方に学ぶ」

「キサ・ゴータミーの生き方に学ぶ」

 皆さんキサ・ゴータミーという方をご存知ですか?仏教を学ぶ人の間ではけっこう有名な人なんですが、名前を聞いたこともないし、馴染みもないという人も多いことだと思います。

 キサ・ゴータミーは今から二千五百年前のインドの女性です。ある村人と結婚して子どもが生まれ、その大切な息子を育てながら幸せに暮らしていたそうです。ところが、その子どもが一歳になろうかというときに突然亡くなってしまいます。自分の一人息子を死なせてしまい、悲しみのあまり気も狂わんばかりに死体を抱きかかえ、何としても生き返らせてほしいと修行者や仙人を訪ね歩いたそうです。ところがそんな願いを叶えてくれる人などどこにもいません。その様子を見て不憫に思った村人に、「お釈迦さまがもうすぐこの村を通りかかるから、お釈迦様に頼んでみなさい。」と言われ、藁をも掴む気持ちでお釈迦様のところへ向かいます。そしてお釈迦様に生き返られてほしいとお願いされたそうです。

 お釈迦様は「よろしい。死んだ息子の命を取り戻してあげよう。ただしキサ・ゴータミーよ、これから一度も死人を出したことのない家に行って、ひと粒の芥子(けし) の種を持ってくるのだ。いいかね、一度も死人を出したことのない家の芥子の実をひと粒持ってくれば息子の命はよみがえらせるよ。」と言われました。

 大喜びのキサ・ゴータミーは家々を訪ねました。芥子の実は当時は食用油の原料だったので、どこの家庭にも普通にあったものです。「芥子の実などお安いご用だ」と言ってくれるのですが、「今までに一人の死人も出したことはないのでしょうね?」と問うと、どの家の人も悲しい顔になり、亡くした家族のことを語り始めるのでした。次から次へと村中の家々を回ったけれど、一軒として死人を一人も出したことのない家などありません。

 疲れ果ててお釈迦さまのもとへ婦ってきたキサ・ゴータミーは言いました。「お釈迦さま、一人も死人を出したことのない家などありません。どこでも両親や兄弟や子どもを亡くして、深い悲しみを経験されております。お釈迦さま、私の息子を生き返らせることはできないんですよね。」と悟られたそうです。そこでお釈迦様は「苦労をかけたね、、、でも命あるものは必ずいつかは亡くなるんだよ。この世のすべてのものはうつろいゆくのだよ。」と真実を諭されたというお話です。

 でもなぜお釈迦様はわざと嘘をつかれたのでしょうか?仏教的には、これは嘘ではなく方便(ほうべん)と言われるものです。嘘は仏教では妄語(もうご)といって、方便とは区別して考えます。嘘は嘘でも「真実を気づかせるために言う嘘」は方便と言われるんです。

 ではキサ・ゴータミーはどんな真実に気づいたのでしょう?「命あるものは必ず亡くなる」ということでしょうか?でもそんなことはもう誰も分かっていますよね?キサ・ゴータミーもそのことは分かっていたはずです。でも分かっていても心がそれを許さないことは世の中にはいっぱいあるんです。分かったからと言ってすぐに心が収まるものではありませんよね?

 実はキサ・ゴータミーはもう一つ気づいたことがあったのではないかと思います。それは自分の心の有り様に気づいたのではないかと、、、。

 つまり、彼女が愛していた「我が子」は、実は「生きている我が子」だったんではないでしょうか?だからなんとしても生き返らせたかった。生きているということに意味を見出していたんです。でも本当は生きていても亡くなっていても、愛する我が子には変わりありませんよね?だから亡くなってからも、生きているときと同じように愛すればいいんだということに、気がついたのではないでしょうか?芥子の実を探していろいろな家庭の様子をみるうちに、亡くなった人をみんなそのままで愛している姿を沢山見られて、そのことに気付かされたのだと思います。

 よくお墓に向かって語りかけたり、お仏壇のご位牌や写真に向かって語りかけたりすることがありますよね?これも変わらぬ愛情をそのまままっすぐに持ち続けているからだと思います。相手の生死や状態によって価値や態度を変えることなく、ありのままを愛していく、こういう愛し方ができたら、とても穏やかな気持ちでいられますよね?これこそが仏教の大切な「慈悲」の考えだと思います。
 二千五百年前のとある村の一人の女性の生き方からも人生のありようを学べるなんて、仏教ってほんとに奥が深いですよね。

☆今日の一句☆

  本当の
    愛とはなぁに
        お釈迦様


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