仏教に学ぶ生き方、考え方「トイレの神様」
ちょっと前に「トイレの神様」という曲がヒットしたことがあります。
こういう言い方をすると、「おっさん、ちょっと前じゃなくてもう随分前ですよ?」と言われたりします。
それはさておき、トイレにはちゃんと「神様」がいて、いつもキレイにしていたら、それを見た神様が「幸せ」を運んできてくれるという内容だったように思います。
ということは、逆に掃除をしていなかったら、「罰」をお与えになるのでしょうか?
よく「天罰」とか「神罰」と言うことはあります。
でもこれは「親が子どもに諭すように叱る」というものなのではと思います。
そして「してはいけないことを伝える」ために、少し「痛い思い」もしてもらうのではないでしょうか?
では対する仏教はどうでしょう?
「仏罰」のようなものはあるのでしょうか?
これについては「ある」とも「ない」とも言えません。
というのは仏教、特に真宗では、元来人間は「煩悩の塊」だと言っているのです。
なので悪いことをするのは人間に備わった「性格」みたいなものでしょうか?
それを仏様は「長い時間」考えて、なんとか「救おう」とされている、というスタンスです。
でもいくら救おうとしていても、人が自ら悪いことをして、わざわざ苦しみを「拾いにいく」ことはあります。
つまり自分の行いで自分が勝手に罰に当たり、それを「神様が、仏様が」と言っているのが我々「凡夫」ということでしょうか?
「火の車作る大工はなけれども己(おの)が作りて己(おの)が乗りゆく」(自分から苦しみという車を作って乗っているという有様)
と言うことは「トイレの神様」は、実は「自分の行いそのもの」であると言えるような気がしています。
☆今日の一句☆
神仏は
自分の行い
そのものです
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