白って200色あんねん
君にこんな言葉を送ろう。
白があってこそ黒はより深く、視界を占領する。
純白。
大衆的に言えばポジティブな、ひいては幸せ若しくは平和の象徴とまでも言われる。
何と大袈裟なことか。
しかし実際、彼のことをあえて色で表すならば、それは「白」と言わざるを得ないだろう。
私の色は、と言われれば。
それを認識するにはまだ遠い遠い道のりが先に見えてくる。
真白い彼の言葉は、時に純粋に濁った私を眩しく照らす。
ただ、私が私自身を濁った色とするかと言えば、そうではない。
もしも紺色でも青色でも、それが白じゃなければ、有象無象はそれを黒だと、そう認識するだろう。
彼らの言うその黒には、彼らには見えないほどの数多の色が混じり合っている。
数多の色というのは、もちろん白を含む。
しろは恐ろしい。周りにしろ以外の何かが無ければそれがしろとすら認識されない。
だだっぴろいスペースかと思われてしまえば、それが完成されたしろだとしても何かを描かれる、作られる。
しかしひとたび額縁に入れば-すなわち別の色が隣り合えば-それは改めてしろだと認識される。
彼にとっての額縁は私になりうる。
つい先日、清らかに濁った私の上に、彼は白色の絵の具をこぼしていった。
ふと気づく。
白は心地いいものなんだと。
なるほどたしかに、白は良い。下にどんな色があろうが、それが固まっていればいくらでも上書きができる。城に帰れる。
けどな、
白って200色あんねん。
澄んだ白があれば少し歪な白がある。
あの彼を澄んだ白とするならば、その彼は歪な白だろう。
歪な白は、見るものの目を狂わす。歪な白の上に描かれたものは、意図した色とは違う色に見えてしまう。
悲しいかな、多くの人は-とは言っても私の知る範囲で-その歪さに気づかずに、歪んだフィルターを通した絵画を正しい色だと勘違いしてしまう。
フィルターっていうのは、彼の口で君の耳だよ。
早々に信じすぎないこと。
砂になるまで噛み砕いて、理解して、それでも靄がかかるなら、絵を直接見に行くといい。
ともかく、信じるべきはフィルターを通した色じゃない。
君自身の目で、耳で、心だ。
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