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「声かけ」【エッセイ】一二〇〇字

この新宿から世界に目を転じれば、いまも「ただ事ではないこと」が続いている。

 ブースタ接種を終えて2週間以上たっても、“ほぼ日”の「巣ごもり」のつつましやかな生活をしている。エッセイのネタ探しに行動半径を拡げるわけにはいかないが、ウォーキングの往き帰りにちょっとした、感動がある。そんな話。

 エッサホイサ歩いていると、「すみませーーん」の若い女性の声が。振り向くと、自転車に乗った中学生らしき子。とっさに「あ、ゴメンゴメン」と、端に寄る。その子は、礼をして走り去った。清々しかった。と同時に、狭い歩道の真ん中を歩いていたことを、恥じた。ウォーキングでよく見かける。狭い歩道を占領してゆっくり歩く人、何人かで横並びに歩く人、とか。「1人分は空けて歩いてよ」と、横暴なことを言う権利は、私には、ゴザイマセン(もちろん)。ただ、後ろに目を付けなさいなんて無茶なこと言わないけども、普通よりも速足で歩く人、ジョギングする人などがいるので、多少は気にしながら歩いてねと、(ちょっと)思う。にも関わらず、私が、その対象になってしまった。そのことを恥じた。そして、その子の爽やかな「声かけ」が嬉しかった。その日一日、何か良いことがありそうな、そんな気さえしてくる。(私の印象であるが)声をかけてくれるのは、小学や中学の生徒に多いように思う。学校の教育か、親の躾なのか。大人になっても、「声かけ」は忘れないようにね、と心の中で、その子に「声かけ」した。

 自宅がある集合住宅は、挨拶し合うひとが多いほうと思う。しかし、たまに、エレベーターで「おはようございます」と言っても、無言のひとがいる。気まずい空気が、どんよりと溜る。相手はスマホを取り出し画面を見入るか、階数表示板を見上げているかで、固まっている(ように感じる)。そのあと、小学生が乗ってきた。「おはよう!」と言うと、「おはようございまーす!」とはっきり答える。すると、無言だったひとも「おはよう」と小さい声を発した。そうか、さっきは、タイミングを逸してしまったのね、と納得する。ちょっとしたことだけど、その一言が、みんなを仕合わせにするよね(大袈裟だけど)。

 つい先日、エレベーターに乗ると、駆け足の音が。小さな子が「あああ、あ」と、「開く」ボタンを押してと、目で訴えている。即、押すと、その子はそのまま奥まで一目散に入って行き、(角には非常用備品が入っている椅子があるのだが)ちょこんと座った。

私は、つい口に出た。

「おいおい、おじいちゃん、おばあちゃんなら、座るもの良いけど、君は若いだろう?」彼は、うなずき、ちょっと腰を上げた。

<ま、素直な子だ>

「君、何年生?」

「1年」

「そうか、じゃ、仕方ないか」(と、妙な妥協)。

自分の階に着いた。

「じゃあな」と私が言うと、

「See you.」と、彼。

「Againは? Againはないか? 一期一会?」

<四字熟語は知らないだろけど・・・>

聞いた彼はニヤっとして、両手を振った。
           

こういう、ありふれた日常でも、大切にしたいものだね。

戦争が好きなひとはいない(一部の人ひとを除いてはね)。でも起きる。なぜか? いま考える時と思っている。


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