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気休めⅡ【エッセイ】八〇〇字

昨日のNHKスペシャル『Z世代と“戦争”』。ある青年が、「(侵略され)いまの立ち位置が大きく変わってしまうと、生きていても意味がないので、闘います」と、インタビューに答えていた。一方で、「自衛隊員でも、人を殺せるひとはどのくらいいるだろうか・・・」と、元自衛官。ワタクシも、わが国が、史上最も誇れるような国であったなら闘います。が、そんな国だったら、戦争はしないと思いますけどね・・・。この件は、後日にでも。

さて、本日のエッセイです。

この「気休め」は、朝カル「エッセイ講座」の8月のお題(600字)。(一週前の)前作か、この「Ⅱ」を提出する予定。さて、どちらが良いか・・・。今回は800字になってしまったので、200字分を削らなければなりませぬが・・・。

 台詞が出てこない!
 高校演劇空知地区予選でのこと。プロンプターに助けられうまくごまかせたと思ったのだが、道大会出場、ならず。ボクの「上がり性」のせい…。リハーサルの文化祭ではヘマをしなかったし、本番でも手のひらに「人」と書いて、飲み込んでもいたのに…。
 小学時代からクラス委員であることが多く、人前で話すことは慣れているはずなのだが、とつぜん頭が真っ白になり言葉が出なくなることが、時折あった。
 中学の校内弁論大会でも。上位に入り、文化祭でご披露! となったのだが。会場は、大会とは違って、真っ暗。スポットライトの中で汗を拭きながら原稿を追い、客席の母の姿を見えた瞬間、暗記していたはずの文字が飛んでしまっていた。「人」の字を飲み込んだのだけど・・・。
 しかし、三十路から十七年勤めた会社時代の、ある経験が分水嶺きっかけとなり、変わる。社員から選出されある講座に出席。その代表で受講の内容を説明することになった。うまくいく気がした。内容に納得できていたからと思う。講師になりきり、その声色・話し方、進め方もマネ、冗談も同じように交え、一時間の独演会だった。
 やはり「人」を飲み込むだけでは、効果はない。そもそも人を飲み込むなんて失礼な話だろうし。そのときは、流れるように話すことができた。思った。「演じていると思えばいいんだ」と。棒暗記ではなく、話す内容を自分のものにできていれば、自然と言葉がでてくる。舞台では、役に入り込んでいなかったし、弁論発表会のときは、母に息子のかっこいいところを見せたいと思っていた…。
 四十六で独立した後、転機となるプレゼンを幾度も経験した。が、なんとか乗り越えることができた。単に会社の代表という役を割り当てられた俳優に過ぎないと、思うようにしていたことがさいわいしたのかもしれない。
 しかし、その代償として、「上ってしまう」ような初心うぶという大切な気持ちも失うことになってしまったのかな、とも思う。

TOP画像:
佐賀県立佐賀東高等学校演劇部による「大隈重信100年アカデミア」の演劇会から

(ふろく)

朝日新聞朝刊(8月7日)

(おまけ)
おとといの休刊日。朝日では、号外を出す試みを始めました。2面だけですが。これで、その日の朝、「あ、そっかあー(休刊日だった💦)」と言わずに済むかなと思いましたが、またまた、やってしまいました。💦 号外は、デジタル版なので・・・。(笑

朝日新聞デジタル版朝刊(8月14日)


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