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「非日常」【エッセイ】

 この何年かの記録的豪雨による、水災害の報道。水の脅威を目の当たりにすることが多くなった。地球温暖化による、「異常気象」が原因という。しかし、映像と自分との距離は、遠いままだ。「非日常」のままなのだ。
 三・一一のときも、そうだった。
 その時刻、取引先との会議で、大阪にいた。大阪でも会議室のブラインドが大きく揺れた。「地震だ」。みなが口にした。「大きい。テレビつけよう」。間もなく、テロップで、震度七を伝えた後、大津波警報が流れる。そして、あの衝撃映像。しばらく呆然と見つめていた。が、妙に冷静だった。回線が混まないうちにと、東京の事務所に電話できていたし、宿泊先にWEBでつなぎ、二泊の延長もしていた。
 ホテルに戻り、深夜まで津波の映像を見ていたが、映画を観ているかのように、知らぬ間に眠っていた。ただの鑑賞者だったと思う。
 翌日、新幹線が動き、なんとか東京に着いた。駅前のタクシー乗り場は、気味悪いぐらいに静寂につつまれていた。視点が定まらないままボーっと、順をまっていた。「非日常」の世界から浜辺に戻った、浦島太郎のように。
 八年を過ぎても、五万人を超える被災者が、「日常」に戻れていないでいるという。
 自戒の念を込めていう。我々のなかにある「非日常」を脱し、現実を直視し、なにができるかを考え、行動する、時と思う。
 (今年の六月。仙台周辺ですが、ようやく巡礼の旅に出かけることができました)

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