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「不屈」【エッセイ】二二〇〇字

明日は、沖縄の本土復帰50周年である。

 横田基地内にゴルフ場がある。多摩ヒルズゴルフコースという。基地関係者の同伴がないとプレーできない。取引先の担当者が、ベトナム戦線にも行ったという戦闘機の元パイロットと付き合いがあり、15年前、何度かプレイした。入場するとき、免許証かパスポートと、(同伴者の)暗証番号が必要。やはりピリピリ感がある。むろん、円は使えない。その日のドルレートで決済される。日本語も使えるが、会話の練習で英語を使うひとも多い。基地内は、アメリカなのだ。

 1972年の復帰当時、全国の米軍専用施設面積における沖縄県の割合は、約58.7%。本土では基地の整理・縮小 が進み、現在、国土面積の約0.6%でしかない沖縄に、全国の専用施設面積の、約70.6%が集中。結果として、基地(だけではないが)による苦痛を沖縄だけに強いることになっている。理不尽と言わざるを得ない。この現状を解消することが沖縄以外の日本人のつとめではないか。沖縄のひとたちに犠牲を強いてきたのだから。復帰したからといって解決したわけではない。
 ところが、悲しいデータを最近目にする。琉球新報と毎日新聞が実施した合同世論調査の、沖縄の米軍基地負担についてだ。沖縄への集中を「不平等」だとする意見は、県内では6割だが、全国は4割にとどまる。さらに県内・全国とも日米安全保障体制をおおむね評価するが、全国の過半数が、沖縄の米軍基地を自分の住む地域に移設することには、反対と回答した。沖縄に「基地を押し付ける」姿勢が浮かび上がる。
 私は、学生時代から日米安保条約反対を主張してきた。それはいまも変わらない。だが、条約なしに日本の安全が守られるか、とも思う。しかしどうしても、沖縄に犠牲を強いる現状を良しとは思わない。できれば、日米安保条約以外の条約、例えばあらゆる国との不戦条約なり、相互安全保障条約を結ぶことで、自主独立と中立を模索できないか。結果、アメリカの属国から脱することになるのだから。

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 今週の水曜日、気になっていた映画、『米軍が最も恐れた男 カメジロー 不屈の生涯』を観た。

 那覇市長や衆議院議員も務めた、「カメさん」こと政治家・瀬長亀次郎。被選挙権まで剥奪されながらも米軍の圧政と戦った、彼の生き様を描いたドキュメンタリーである。不屈の精神で戦い続けたカメさんを追い、本土復帰へ向けた激動の沖縄を描いていく。彼が残していた230冊を超える日記から、妻や娘らと過ごす家族の日常や、政治家・夫・父・オジイなど、さまざまな顔を浮かび上がらせていく。
 彼特有の言葉がある。「小異を捨てず、大同に就く」である。行政主席選挙の際に、屋良朝苗(初代県知事)を当選させるために発した言葉である。「人間それぞれ個人の考えがある。それはきちんと持って同じ目的のために連帯し戦う。そのやり方であればその後の内部対立を生まない」という意味だと言う。のちの「オール沖縄」の精神に受け継げられる。いまの野党にあらためて言ってやりたい。「小異を捨てず、大同に就け」、と。

 エピソードもカメさんらしい。
 彼が不当に逮捕され牢獄に入れられているときに読んでいた本が、『レ・ミゼラブル』。その中で少女コゼットが高い塀を乗り越えて間一髪で逃げ込んだ先は修道院の庭だった、くだりがある。自宅が刑務所と道を挟んで接近していたこともあり、次女の千尋ちひろさんが小さいとき、塀の上から刑務所の中を覗いていたのだが、のちにそのことを聞き、彼女の娘、孫の愛さんをコゼットと呼ぶようになった。カメさんは、ジャン・バルジャンから「不屈」の精神を学んだという。
 さらに、沖縄から本土への移動が認められ全国遊説の旅の帰り。懐かしの鹿児島(鹿児島大学にいたことがある)の小高い城山公園で、合流した次女千尋さんと写真をうつしたことが日記にある。そのときの表現が、「チーちゃんと、カメラでパチリ」。とてもチャーミングな男だった。

 沖縄戦では、約20万人あまり(米兵士1万強含む)ものひとが亡くなった。軍人よりも一般住民の犠牲者が上回った。県民の4人に1人が亡くなったとされる(本土での空襲(原爆含む)による主な犠牲者数。広島:約14万人、東京:約11万人、長崎:約7万人)。沖縄を本土の防波堤とし、戦争を長引かせたことが犠牲を大きくする結果をもたらした。日本兵による残虐な行為によって命を落とした住民もいる。これほど多くの犠牲者を出し終戦したが、そのあとも本土とは異なり米軍占領のもと苦難が26年も続き、いまも本土の犠牲を強いられている。

 大学時代、比嘉という男がいた。名字からもわかるように、沖縄のひとだ。1972年に入学し演劇科志望者のクラスメイトだった。5月15日の返還日に、彼がつぶやいたのを覚えている。「これで、『琉球住民』としての『留学』扱いでなく、渡航証明書(パスポート)なしに、日本人として移動できます」と。
 この映画を観るまでもなく、沖縄の苦悩を深く理解していたら、取引先の誘いにしても基地内のゴルフ場にノコノコとでかけ、ワー・キャーと騒ぎながらプレイできただろうか。
 比嘉くんは、卒後に沖縄に戻ったと記憶するが、郷土のために貢献し、いまごろ孫でも抱いていることだろうか。

(おしまい)

(付録)

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『民族の悲劇―沖縄県民の抵抗』新日本出版社; 新装版 (2013/4/23)

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(瀬長亀次郞の不屈館館内)

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(当時のパスポート)

(上の2点の画像と下の文章は、「沖縄REPEAT」サイトから)
瀬長亀次郞は学生時代を東京で過ごしていて、パスポートを持っていました。しかしながら、米国民政府に対する宣誓拒否したところから、弾圧を受けてきて、パスポートの発効すらも16回拒否され続けられたのです。パスポートと言っても、写真にあるように「本土と沖縄の間を旅行する日本人」であって、米大陸やヨーロッパといった外国に行けるわけではないのです。
※彼の学生時代は鹿児島大学と認識しているが・・・。パスポートの日付は本土復帰の前年になっている

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琉球政府創立式典の宣誓の際に、他の委員は脱帽・起立していたが、瀬長は、最後列の椅子に帽子をかぶり座ったままだ。このあとから米軍の弾圧が続く。

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