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絶交【エッセイ】一四〇〇字

 9月23日の朝日新聞「折々のことば」に、こうあった。
まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ。(ドストエフスキー)
 19世紀ロシアの長編小説『カラマーゾフの兄弟』(原卓也訳)の中で、カラマーゾフ家の次男イワンが弟にこう語る。この言葉は他人と他者は違うと教える。赤の他人は私と無関係なので、他者としてのその存在は希薄だ。逆に身近な人は私と磁石の同極のような関係にある。我(が)が鬩(せめ)ぎ合い、意地を張り合い、些末(さまつ)な行き違いにそのつど引っかかる。つまり他者性の度合いが高い。

 大学1年のとき、常磐線・南柏にいた。大川と同居していた。道立滝川高校3年のときのクラスメイトであり、二人とも受験に失敗し、彼とは、札幌での下宿先が同じになるほどに親しかった。私は、再度、受験に失敗して、東京・小平で2浪生活。大川は、東京理科大に進み、千葉の野田校舎に、南柏から通学していた。
 かろうじて早大への進学が決まったとき、一緒に住まないかと、大川から誘われた。ちょっと距離はあるが部屋代が安くなる、と思い同意する。通学時間が、1時間ちょい。電車の中で本を読むにはちょうどよかった。その後、5月に早稲田・馬場下にオープンした、ハンバーガーがメインの喫茶店、「SEASON」という店でアルバイトを始めた。その店のバイト仲間、教育学部の野瀬喜美子との出会いによって、状況が一変することになる。
 夏休み前から気になっていた彼女に、後期早々に告白しようとしていた。が、なかなか切り出せずにいた。そんな10月のある日。店のカウンターでバイト仲間の2歳年下の男、中田を挟み、野瀬と昼食をとっていたとき。中田が、「キミちゃん、最近元気ないね。どうしたの?今度遊びに行こうよ」と、言いやがった。すると、野瀬が、「マーちゃん(私の事)に振られたの」と。この一言が決定打になった。その後、早稲田祭で野瀬の門限が一時的に解除になったのがきっかけになり、付き合うことになる。
 そうなると、南柏までの1時間が、徐々に負担になってきた。野瀬には、6時が門限というハンデがあり、夜遊ぶということは叶わなかった。その分、昼間や休日が貴重な時間になる。近ければ、もっともっと会えると思うようになっていった。
 そこで、大川に、意を決して言った。「早稲田に部屋を借りるので、出て行っていいかな」と。むろん、大川は怒った(そりゃそうだ)。部屋代の負担が全額になる。話し合う余地はない。それよりも野瀬との逢瀬のほうが大事だ。決心は固かった。
 すると、大川の口から、「絶交」という言葉が飛び出したのだった。そのときを境に、半世紀過ぎたいまも、交信はない。
 実は、その年、あと一人、絶交になってしまった友人がいる。1浪目の札幌時代に、大江健三郎の発禁本『政治少年死す』を自費出版したときの仲間、鷹野だ。彼は、北大の革マルで活動していた。その鷹野への手紙の文章で、革マルのことを、迂闊にも「マル」と記していたのだ。返信の手紙には、その侮蔑した表現は許せない。「絶交」しようと、あったのだ。
 高校で病欠留年し、2浪をし、その年22歳になったときで、まさに「22歳の別れ」になってしまったのだった。
 大川は北海道に戻り高校の教師に、鷹野は学生運動に挫折し、北大を辞め札幌医大を再受験、現在医師をやっている、と聞いている。

 冒頭の「折々のことば」の、「身近な人は磁石の同極のような関係にある」であった。


※ヘッダーの写真は、早稲田に借りたアパート(「牧南荘」)があった場所。現在は立派なマンションになっている。当時も鉄筋コンクリートではあったが、トイレは共同、風呂なし。小さなキッチン付きの五畳間だった。

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